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「詩と思想」2016年9月号・「現代詩――批評の全景」から

若手詩人たちの作品世界を辿り、詩の豊饒さへ
――若手詩人の作品の傾向と表現方法

光冨郁埜 

「若手詩人たちの作品の傾向と表現方法」はどのようなものか。詩の世界における若手とは、わたしのイメージでは十代から四十代位になる。正確な生年月日がわからないのであくまで目安としてだが。またどの作者を挙げるかで傾向も違ってくるだろう。
今回は、峯澤典子、岡田ユアン、伊藤浩子、颯木あやこ、中村梨々、平川綾真智、広田修、中島真悠子を選んで探っていきたい。
 手法・形式的に見ると、詩語及び読解の作業が「平易」か「難解」か。比喩が「直喩」か「隠喩」か「換喩」か。「私性」の強弱。「抒情性」と「叙事性」、「抽象性」と「具象性」、構成はどのようになっているか。創造世界が「現実的(リアル)」か「幻想的(ファンタジー)」か「超現実(シュール)主義的(レアリスム)」か。
 テーマも含め主な力点が「社会性」か「言語至上主義・言語実験的」か「日常性」のいづれか。
 もっとも現代詩(自由詩)は定型詩や伝統的文芸の分野に対し、おおよそ言語実験的要素を持つ。
 また文体・文脈的に国語として「正統的・保守的(文法を遵守)」か「アクロバティック・革新的(文法の破壊・逸脱)」か。「独自・独創性(オリジナリティ)」か「引用・間テクスト性」か「二次制作性・複製(コピー)」か。構造としてどうか。また作者は詩を「現実(リアル)・ありのままを書くもの」か「虚構(フィクション)」か、どちらを強く捉えるかなど。
読解・批評は誤読も含めて多様な読みをはらむ創造的なものである。

 まずは、峯澤典子詩集『ひかりの途上で』(七月堂)の「はつ、ゆき」から。

「何万回繰り返されても
 この身の転生は
 ひとと別れるために
 小さな冬から冬を渡る
 寒い道ゆきでしかなかった」

 赤ん坊の「わたし」が語り手で、それは回想であるのか、いまここであるものとしてリアルタイムで語っているのか、興味深いところがある。
おそらくは、赤ん坊の「わたし」がはじめて目をあけたときに見えたものは、冬の部屋の光景であると同時に、幾度も転生を繰り返し、出会っては別れていくひとたちと土地の情景と愛慕であったのだろう。
また作品の底辺にあるのは仏教的な輪廻転生観でもあり、それは「この身の転生は/ひとと別れるために」で記されている。また「いまにも降りだしそうな/はつ、ゆきに耳を澄ます/ひとつ/また ひとつ/どこかでいきものが」にも澄んだ抒情性が感じられる。
 作品中4連目「てん、てん、てん、」という擬音語が効果的に繰り返し使われている。これは「兎か 狐だろうか/南天の実のような/真新しい血が続いている」で、獣が傷付いて血を点々と落としていることが当然ながらわかる。7連目の「てん、てん、てん、」は「ゆきとともに/南天の実は/とめどもなく落ちる」では、南天の実(血)が落ちていく様が描かれている。これは獣の血の比喩で、話の流れ上、そのままの南天の赤い実ではないだろう。あるいはダブル・イメージの可能性もある。

「何度いのちが絶たれても
 ひとの手はなお
 花びらを模して
 どうしても
 やさしく生まれようとする」
                      「途上」から

 「途上」などに見られるようにこの作品のテーマは〈いのち〉であることが伝わってくる。
 この本はシンプルなデザインのソフトカバーで、この作品集がH氏賞を受賞したというのは、当然ながら作品そのものの内容によるものであり、とても好ましい。(かつてはハードカバーで名のある出版社からでないと受賞できないのではないかというある種の印象があった)
 詩の言葉として、平明な作りで、印象としては優しく柔らかであった。詩集全体のテーマは〈いのち〉や〈母性〉でもあろう、それは〈赤ん坊〉〈子〉という詩句が見られることからも伺える。


 岡田ユアンは感性的・理知的な作風である。第1詩集の『善良な沈殿物』では未成熟な部分を感じたが、感性の良さに好感を持てた。その後、詩と思想新人賞を受賞し、『トットリッチ』(土曜美術社出版販売)を上梓した。
「間隔 彷徨」の冒頭部分では

「トットリッチ

 湿った夜に鳥が鳴いた
   *
 あまけづく夢の断章がふいにおそう
 さし込まれる瞬間的な感情を追いかける
 そのうしろ姿は
 時間にも空間にも制限されない枠
 あるいは階層」

 詩集のタイトルはこの「トットリッチ」から取ったものだろう。鳥の鳴き声を連想させるので、擬音語と捉えられる。(余談だが、鳥取の女性を応援するHPやワインのお店にも「トットリッチ」という名称はあるが、おそらく無関係であろう)

 収録作「明朝体」では、ゴシック体の本文の一部分「の」「湖」「さ」「が」などを明朝体にしている。明朝体はコップのなかで、泳がせた字であり「の」「で」の字は変形がかけられており、沈殿していく様を現わしている。
明朝体の部分はタイポグラフ的視覚効果を狙っている。

「開いたままの頁の上で文字がひからびていた 眠
 りにつく前まで遜色なく紙面に張り付いていたは
 ずなのに と思い声をかけてみた 反応はないが
 その息に押されて いくつかの文字が寄る辺なく
 浮いた ひからびた文字を指でつまみ 手のひら
 にのせて拡げてみるが 何の文字だか読み取るこ
 とはできない 試しに水をたらしてみると 静か
 に手足を伸ばしながら姿を現した  そうして
 一文字一文字甦らせ コップの中に泳がせてみた


  湖
 さ

 ユニークな作風では「うえお」や文字の作り・偏〈うかんむり〉や〈りっしんべん〉など題材にユーモアを盛った「呑み込む」など端正な作風以外に幅を拡げているのがわかる。

 伊藤浩子の『名まえのない歌』(土曜美術社出版販売)の「冬」を見る。

「真白な景色に挟まれながら、空色の服の兵士たちは、ジャック・ダニエルの手下のように多くの犬を殺すに決まっている。
 死んだ犬の耳と鼻は、そのまま、兵士たちの耳と鼻になるから、落ちてくる血の音と匂いには臆病なほど敏感だ。

 ジャック・ダニエルは、この冬の間中、犬を殺し続け、戦争を辞めないと宣言した。もし辞めてしまったら、それは戦争に負けたことになると信じているから。
 負けたらどうなるか、分かっているかい? それが合言葉だ。」

 ジャック・ダニエルと家族と兵士の、虚構性の強い寓話的要素もある作品群で構成されている。ジャック・ダニエルというのは作品上の将軍・政治家などを連想させる権力的な父性者の名前であり、ウイスキー(好きの人物)の換喩や象徴とも取れる。

「妻」では、父親殺し、母親盗みの予言による子殺しという神話的な構図が描かれる。
「実際のところ、この妊娠は失敗で、占い師から予言を聞くと
(「この子は父を殺し、妻と交わるだろう、二人の姉とも交わるだろう」)、
ジャック・ダニエルは生まれたばかりの子どもを、月影が落ちる草原の、音無川に突き落としてしまった。
顔のない女の、呪われた子。」

 また散文調の作風で作られた主文というべき作品群のなかで、ときおり「~の歌」と題された話者と書体と詩の文体を変えた作品を挿入している。
 詩と思想賞を受賞し、その後の詩集『wanderers』(土曜美術社出版販売)では、前述の「冬」の父親殺し・母親盗みを阻止するために子殺しの話があったが、ここでは父親殺しのイメージやフロイト的・精神分析的な展開が見られる。たとえば「象の墓場」を見ると以下のようになる。

「象たちの皺くちゃの鼻も伸びつづけているので
 少年は 父親を殺したと叫ぶ
 なんどもなんども父親を殺してきたそうだけれど

 とうとう殺せなくて
 いいや、父親は無限な心臓を持っているから
 死んでも死に切れないかなしみがある
 (海に運ばれるかなしみ」

 また「姉弟」、「供炎」、「たなかさん」、「秋」など散文的な作品も収められている。


 颯木あやこでは、『七番目の鉱石』(思潮社)で、何人かの読み手の評価のなかで、これまでの彼女の作品とは違う驚きや決意や成長を見たようだ。
表題作「七番目の鉱石」では、

「磨け、今より――

 氷山ひしめく部屋で
 冷たく焼けていく腕や足
 闇に目は冴え、

 焦がし尽くした吐息 赤
 明日、芽生える苔 エメラルド
 絶望に避ける蕾 紫……」

 という冒頭から始まり「見たか革命の朝」という中盤、「前世のそのまた前世/極楽鳥 舞い上がり/七番目の鉱石は/闇のしずくを涙液にして/金星 、//瞬く」などに見られる作品群に、将来性を感じられ、本年度の日本詩人クラブ賞を受賞した。タイトルにある〝7〟という数字に、聖書でいう神が七日間で世界を創ったというように特別な意味を持たせているようだ。


 中村梨々詩集『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂)の「ロシア」では、会話体で書かれている。

「ナオちゃんがいうには、あたしたち自転車に乗って
 ロシアの平原を突っ走っていたって
 すごいねぇ、ロシアなんて行ったこともないし行きたいと
 思ったこともないのに、ロシア
 ロシアロシアロシア、あたしはもう駅とか空港とか
 思い切り空とかすっ飛ばして、ロシアにいる
 ロシアにいるナオちゃんとあたし」

 言ってみれば、日常性を突っ切るように走ると、非日常に達するが、それでもなお日常性を維持している。そのような特徴がある。難解な言語と理論で構築される詩もあるが、平明な言葉で描かれる日常にも飛躍があり、詩情〈ポエジー〉もある。そのことも大切なことである。

 独特の作風で、一線を画したのは、平川綾真智である。詩集『202. 』(土曜美術社出版販売)の「新屋敷2丁目 8月24日」から。これはメールやインターネットやブログの引用・符号も含む文体である。冒頭の2カ所「。」(読点)のみは省かせてもらう。

「a-hirakawa@blog.up..jp(2006/08/25 1:25):

>― ―
>飲みすぎた日は、ベッドから落ちて夢ばかり見る。瓦屋
の作業所からトンカチの音が聞こえて来ると、生活の流れ
に意識は戻り、刻む時計へと、見開く視線を向けさせてい
く。けれども今日、大学は休講が重なって一コマも講義は
無いことに、視界の中を歪むカレンダーの印で気付かされ、
再び、私は目を閉じる。夢と現実の狭間を行き来し続ける、
もっとも心地よい遠くへの最短の旅。生きる意味とは、布
団の中だけにある。そう確信するのはこんな時だ。」

 また句読点を行頭にもってくる作品「夜空にテラワロス」があり、それ以降の平川の手法の一つとなった。最近ではさらに以下のように洗練性を加えていくようになった。文芸誌「狼」27号から。

「「・ 双歯のツヴォルフ」


                                  3
ほどけていく住宅地の腸(が硝子鉢を煮溢していた
。まわる海藻に工場連窓は起き上がり っ
ながら 、 まだ汐渇き
の6丁目へと水域、 が環状線の髪を吸い尽くしている
、 っ はやく産まなければならない 。
ななめに雲丹殻で皮膚 、 を っ             d
追い、 ぬき廃棄液晶の潮をすすっていく」

 一般的には「難解」と見られるだろうが、この文体には吃音のような欠落と過剰性がある。ここまで徹底すると、意味が解る解らないではない(実際には解らなくはないが)、イメージや空気感や質感を感じることはできる、読みとれることもできるが、むしろここには〈言葉そのもの〉がある。詩の言葉はイメージや意味だけではなく、存在つまり物〈オブジェ〉であり、同時にそれ自体が自ら動いていく生き物でもある。詩は、詩はこうあるべきだという枠からも自由であれる。そのための時には散文体・実験的散文詩であったり、平川のような文法からの逸脱であったりする。

 理知的・思考的な詩の書き手の広田修『zero』(思潮社)の「法学」から。

「第一章 権利

 君をみたす酸素分子はさだめられた方角を見失うとき、霧となる。池のおもてで朝日が砕かれてゆくのを、君は燃える指でなぞる。どこまでが記憶なのだろうかと、問うこともしない。背後にあいた小さな穴へと、君の体は奪われてゆきそうだ。」

「音楽の道」では、

「)鳥が叫んでいた、音楽の道。(僕はその先に小屋があっ
て、小屋はビルの一階になっていることを知っている。
沙漠の拡大は羞恥心により妨げられている。ビルの屋上
から沙漠は始まった。音楽が細く放射していく。僕の眼
球。小屋の中、椅子の上にはもう一つの椅子があり、鳥
の叫び声を保存している。」

 ここには散文体の理知的な詩の思考力とイメージ言語の鮮烈さによって、世界への解釈と再定義・再構築がなされているようだ。

 中島真悠子詩集『錦繍植物園』(土曜美術社出版販売)の「蟲の夜」から。

「岸辺の石を裏返すように
 昼を裏返すと
 幾千の蟲が湧いてくる
 太陽の背に都会は爪をたてて明滅する
 ひとつひとつが冷たい熱を堪えて
 赤と緑と青にかがやく
 蟲たちの眼だ」

 ここには「蟲」たちの生命力〈エナジー〉がある。ひとはこうあるべきだという理想〈ヒューマニズム〉よりも命のリアルさはこういうものだという、グロテスクさに通じる息吹がある。そしてひととしての葛藤も感じられる詩集であった。この詩集で日本詩人クラブ賞を受賞した。
 誌面に限りがあるので、ここまでだが、詩も書き手も多様であり、個性である。濃厚な世界の為平澪、現代のモダニズムの浅野言朗ほかがいる。
 最近、詩と思想の新人賞受賞の為平は詩集『盲目』を上梓し、「――この物語は虚構の形をした真実である。」と巻末にあるが、残酷なまでの傷とつらみが詰まっている。浅野は新鋭の建築家らしく『2(6)=64/窓の分割』では作品のみならず詩集全体を計算された構築物としている。
 今回紹介したのは、最初の峯澤以外は、わたしの編集発行の文芸誌「狼」(2000年創刊)の過去・現在の参加者である。いままで若手・新人は70名以上が参加してきた。年齢的にも中堅の域に近いと思うので取上げなかったが、破壊力のある高岡力、モダンな加藤思何理、ペーソスとユーモアの家族のシリーズを描く石川厚志などもいる。
 また、若手ではないと思うが、引用と長編で特徴的なのは、活字媒体でもネットでも活動している田中宏輔である。田中はネットの詩と批評の投稿サイト「文学極道」の年間選考で創造大賞を4度も受賞、一条(活字媒体では無名に近い人物)に次いで殿堂入りを果たした。
 補足として、2005年創立の「文学極道」略して文極(ブンゴク)では、広田もzero名義で創造大賞を受賞し、平川は代表代行を長年務めてきた。創始者のダーザインはネットで詩の世界に革命を起こそうとした。わたしは2016年4月から新代表に就いたが、平川ら複数の発起人・スタッフとともに、文極をネット詩の中核として存続させていく構えである。当然、次の世代の書き手もここで育つことであろう。
 活字媒体の投稿者では、文月悠光、望月遊馬、岩尾忍、三角みづ紀らがいた。
 今回、若手詩人たちの作品を見てきた。〈現在〉とは通過点に過ぎず、さらなる独自の言語世界の屹立と詩の豊饒を臨みたい。

*引用部分はカギ括弧でくくりました。(出典では字下げで処理しています)

日本詩人クラブ「詩界」 現代詩への提言ないしは創作の現場から

光冨郁埜

詩とは、詩人とは、滅ばされようとしても立ち上がってくるもの


【はじめに自分の立ち位置を確認すると】
 「現代詩への提言ないしは創作の現場から」というテーマで原稿依頼を受けたので、詩とメディアの環境と状況について記していきたい。
 十九歳のころ「現代詩手帖」の投稿欄に一度だけ投稿して、作品を載せた。当時は近所の小さな本屋にも現代詩の本が棚に並び、伊藤比呂美やねじめ正一らのセクシャルな詩が注目を浴びていた。わたしはジャーナリズム系の専門学校文芸創作科で、鈴木志郎康氏やねじめ正一氏の現代詩の講座を受講していた。その当時は詩を書きたい一心だったが、二十歳で詩作も学校も辞めて社会に出た。
 社会に出て、写植業界に入った。バブルのころ、写植・版下の会社で、毎日終電や泊まりで雑誌やカタログ制作の一部の仕事をしていた。日常が空虚に思えて、詩を書くことを再開した。二十代後半に小さな第一詩集を出版した。当時は新風舎という会社があり、まだそこが良心的な経営であったころ、出版社と著者で費用を分担して詩集を制作した。現代詩に反感を覚え、ポエムを書いた。しばらくしてバブルが崩壊し、写植の会社も次々と倒れていき、MacのDTP(机上出版)がそれに代わる新しいシステムとして始動していった。わたしは離職し、十数年間非正規社員として転職を繰り返した。その過程で、三四歳のころ、第二詩集『サイレント・ブルー』(土曜美術社出版販売)を出版し、第33回横浜詩人会賞を受賞した。
 受賞式の際に思うことがあり、横浜詩人会には数年入らなかった。自分の世界を広げたくなり、入会して、選考委員や委員・理事になり、事務局長・理事長という裏方になったのはこれも数年のうちであった。それまでは、あまり詩友関係を持たず、ひとりで詩を考えながら、自宅と職場と詩の講座を行ったり来たりしていた。その間、個人の文芸雑誌「狼」を編集発行していた。持ち込んだ「バード・シリーズ」の原稿をめぐり新風舎に批判的な立場となった。その時に既存の出版社に依らない自主制作の発行所「狼編集室」を立ち上げようと思った。それから数年後、第三詩集『バード・シリーズ/斜線ノ空』を狼編集室から出版した。あまり謹呈はせずに、それを元に『バード・シリーズ 新装版』を作り、二百冊ほどを売った。
 昨年5月に詩のイベントの運営上のことで疑問を抱き、主催の一人ながら当日ボイコットをしてから、詩人の集まりにあまり出ずに、作品制作と「狼」「羊が丘」など雑誌制作に専念している。たまに好意で小さな朗読会に呼ばれては、数編詩を朗読して帰ってくる。また第4詩集『豺(ヤマイヌ)』(狼編集室)の制作中でもある。

【詩とは何か、ということ】
 一言でいうと、わたしにとって詩とは孤独なものだ。詩作品が良いのが一番であり、それには詩論も重要であるが、それだけではなく生き方や存在も詩人としては踏まえる。詩人は職業ではなく、人であり生き方であり存在である。また現代詩というのであれば、近代詩と同じ考え、手法に止まるわけにもいかない。言語・詩的実験的要素と、批評性のある真・善・美との融合も必要と考える。
 発表のメディア・媒体は、インターネットのブログ、ホームページ、電子書籍、SNS、掲示板、詩の同人誌・専門誌、詩集・アンソロジーなどがある。始めはノートやワープロに向かって書いていた詩が、作者の手から離れて読み手の元へと、渡っていく様は希望でもあり、孤独でもある。
基本的に文学は主観の世界であり、わたしはこう思う、こう感じるが大切ではあるが、現代思想・文学理論により客観性や批評性(自己や他者)も重要となってきた。

【ネット詩という媒体】
 若い世代は、インターネットの掲示板やブログでの投稿が、詩を発表する最初のことになることは少なくない。わたしはここ数年、インターネットの詩の投稿・批評のサイト「文学極道」で賞の年間選考をしている。以前はわたし自身が投稿者で、2回ほど実存大賞で受賞歴があったが、運営サイドの発起人になった。インターネットでは多くの閲覧があり、常時投稿や書き込みがある。「文学極道」では、量も多く、また作品の質を落とさないためにも、月の投稿回数に規定を設けている。また発起人から見て質が低くすぎる作品や書き込みは削除の対象となることもある。「文学極道」で評価を得る作品と、得られない作品は、別の媒体例えば「現代詩手帖」やそのほかの雑誌あるいはインターネットの投稿サイトではまた違う評価となることも少なくない。
 従い、例えば「現代詩手帖」に執筆している詩人だからといって、「文学極道」ではどういう扱いや反応を受けるかは作品と詩人の受け答え(レスポンス)次第でもある。
 活字媒体での評価=ネット詩での評価ではないし、その逆でもある。以前はネット詩=ポエムという見方で軽視されてきたが、いまは活字媒体の詩人たちもインターネットに作品を掲載し、また両方をしている詩人たちも若手・中堅を中心に少なくはない。またインターネットで作品を発表していた詩人が、活字媒体へと移行したり、投稿したりするような流れも珍しくはない。インターネットと活字媒体の垣根は越えられつつある。またインターネットの詩のサイトでも、批評性が求められるようになった。

【同人誌という媒体】
 一人で参加・編集発行する個人雑誌から、数名のグループの同人誌、数十名から百名以上の大所帯の同人誌などがある。ワープロ用紙にプリントをしたものから、表紙をカラーにし印刷製本された見栄えは商業誌とさほど遜色のないものまである。
 戦後詩でいえば代表誌として「荒地」や、「列島」などもあったが、最近はもっと軽い感覚の楽しめる誌もある。また同人誌のグループでの、朗読会や合評会やシンポジウムなどのイベントが設けられることもある。
 わたしが編集発行している雑誌は2つある。ひとつは文芸雑誌「狼」で2000年が創刊であった。短歌、詩、評論、イベント・インタビュー記事などを載せてきた。今は新人・若手からベテランまで二十名近くの「詩を中心としたアートの形成」をコンセプトにした文芸誌となった。派手なカラー表紙で、
 Amazonや「狼編集室」の販売サイト及び秩父・武甲書店、新江古田・中庭ノ空、三鷹・古書上々堂(1年間常備棚設置)などの委託販売店やTokyoポエケットなどで販売している。またジャンルやプロ・アマを問わない創作雑誌「羊が丘」を妻の由美子と作った。こちらは俳句、詩、コラム・エッセイ、写真、グラフィック、インタビュー記事などを載せている。amazon、委託店として上記以外にもワタリウム美術館・オンサンデーズや緑園都市・丸善でも販売されている。マイナー志向で、地道に、しかし詩誌という枠に囚われない自由な活動をしていく。またわたしは横浜詩人会会員数名で作った「ウミツバメ」という詩誌にかつて参加し、編集担当をしていた。

【投稿という手段】
 当然ながら投稿は、ネット詩の掲示板や同人誌や専門雑誌にそれぞれ行う。投稿をあまりしない、あるいは全くしないという書き手もいる。わたしも詩誌に投稿したのは、数回ぐらいで、それほどは続けなかった。雑誌の傾向を知るため(雑誌や評者は何を選ぶか=何を価値とするか)と、自分の作品はどう映るかぐらいが目的だった。
 投稿して、入選・入賞し、詩集を無料で、あるいは比較的安く作ってもらい、その雑誌の執筆陣になり、他誌にも顔をだし、やがて総合雑誌、そして本屋の書棚に自分の詩集を置き、朗読会、講演会などに単独出演し、原稿料や出演料をもらい、TV、新聞、ラジオに顔を出し……、というメジャー路線をわたしはあまり考えなかった。自分にとっては、詩はパフォーマンスでもないし、有名になるための手段でもない。メジャー路線を否定はしないが、そこは取らない、取れない自分が、やはりマイナー指向なのだなと再認識をしている。

【専門雑誌の存在】
 老舗の「詩学」(寺西編集長の死は現代詩の状況にとって象徴的であった)亡きあと、「現代詩手帖」は、ただ一つの純粋な商業雑誌とされている。「詩と思想」は半分商業誌、半分会員購読雑誌で運動誌とされている。「現代詩手帖」は「言語派」とも言われることもあったが、実際には多様な個性があろう。西脇順三郎・瀧口修造などのモダニズムの系譜も健在であろう。
 かつて「詩と思想」と「現代詩手帖」は対立的な時期・構図があったと聞く。わたしの印象だが、現代詩手帖陣営は一方を無視し、詩と思想陣営は一方に反感を抱いていた部分もあるように思えた。近年、一色真理氏は「現代詩手帖」に執筆する詩人を、自らが編集する「詩と思想」に招いて作品を書いてもらうということを積極的に行っている。個人的には、もっと自由に媒体を雑誌に限らず行き来できるような詩の世界であってほしいと願う。ほかにも「びーぐる」など幾つもの詩誌が刊行を続けている。また必ずしも商業主義でなくても存続できる詩の世界でもある。紙媒体も、また電子書籍も様々な試みがされてきている。

【詩集制作の目論見】
 小説家と違い詩人になるのは容易い、だが詩人として他者から認められるのは難しいと、聞いたことがある。まして職業詩人として生計を立てるのは極めて困難だが、名誉・名声を得られる可能性は少ないがあるだろう。本来は詩作品が優れていることが第一条件だが、所属雑誌及びその貢献度・受賞歴・交友関係・派閥などにより、良い詩や良い書き手が隠れてしまう、いわば悪貨は良貨を駆逐するような状況には注意されたい。
 数十万から数百万円の詩集制作も、流通制度の関係で、一般の書店に詩集が並ぶのは難しい。一部特約店や、一般に認知されている詩集が、なんとか置かれている状況である。売れる本しか置かれないし、売れないと小売店の担当者が判断すればすぐに返品されてしまう。ますますメジャーな本しか流通せず、マイナーの本は一般の目に触れる機会もなく、存在しないに等しいという事態になっている。詩というジャンルこそが、マイナーのすばらしさを表せる貴重なものであるはずだが、マスコミや詩のジャーナリズムとその影響の商業的価値のみの偏向を憂いたい。

【詩の本来性を踏まえた総括】
 詩における各媒体の特性や状況などを見てきたのだが、詩は本来的には、個人的なもので、マイナーであってよく、必ずしも万人のための詩であったり、商業的価値のあるものであったりする必要はない。メディアや中央詩壇という幻想を意識すると、その時流に乗らないと、自分の存在や詩の価値がないと思い、脚光を浴びているひとに追従しないといけないような錯覚もしくは妄想に陥るのかもしれない。
また選ばれるための、認められるための、傾向と対策のような作品制作や、実力者に認められるための社交的交流や、雑誌や会の新人を囲み育成するシステムなど、本来詩人に必要かどうか疑問な部分や状況を感じることもある。
 文学的価値をどこに認めるか、自分が何を描きたいか、を大切にしておけば、それでよいのかもしれない。メジャー、マイナー問わず詩は、そのものに宿る本物の価値であり、それを創るものと、受け取れるものの存在なくして、詩は完成しないのだが、実際には、詩とは永遠に完成をしないものなのかもしれない。詩人もその詩も、ひとの思惑や時代の流れなど気にせず、自由に生きる、在り続ける、つまりは自分の存在は自らが示すということでもある。媚びず、屈せず、傲らず、そして自由に。
 文学理論的に言えば、「間テクスト性」という言葉もあるが、全ての作品は古今東西書き尽くされてしまい、もはや模倣・反復・批評のパロディやあらゆる境界・ジャンルへの越境・逸脱しかないのかもしれない。またフクシマの震災以降わたしたちには変わったものと変わらないものもあるのだろう。詩とは、詩人とは、滅ばされようとしても立ち上がってくるものである。

狼編集室のブログ
http://ookamimagazine.blog.fc2.com/

「詩界」掲載

光冨郁埜・評論

若い詩人たちの詩は「無」か、否か

 さて、今回は詩と思想編集委員のO氏から、「土曜美術社出版販売/詩と思想」の「現代詩の新鋭シリーズ」と、「思潮社/現代詩手帖」の「新しい詩人シリーズ」を読んで何かを語ってほしいと依頼を受けた。
 現代詩についての様々な考え方がある。例えば、詩のメッセージ性の否定、短歌的抒情性の否定、音楽性や定型からの離脱、意味とイメージの断絶と飛躍、言葉の多義性やあいまいさ、文法・文脈の破壊、自己や他者・社会に対する批評性、夢幻性・妄想性、身体性、私詩と私性の詩の関係、戦争協力詩への反省、あらゆる方法論や作品の間テクスト性(オリジナルというものは存在しない。すべては引用である)、メタ詩(詩について言及する詩)、抒情詩の復権、虚構・仮構性、無意味性・ナンセンスとユーモア(ブラック含む)である。あるいは中心と周辺・境界の関係、越境、ジャンル越え・ボーダレス化など。
また最近は、海外の詩では、ヨーロッパやアメリカの詩だけではなく、中国や韓国を始めとするアジア、メキシコなどのラテンアメリカ、ネイティブ・アメリカンなどの詩にも関心が寄せられている。
 そして若い世代の詩の書き手は、歴史の円環(あるいはDNAの組成にも似た螺旋階段)の中で(大正ロマン主義→戦前モダニズム(ダダ・シュールレアリズム、コンクリートポエム・視覚詩含む)→戦中詩(戦争協力詩)→戦後詩→現代詩→現在のロマン主義→現在のモダニズム→様々な機会に際しての詩(湾岸戦争・9.11テロ・震災など))、自分たちの目の前で起きていること(状況や環境や事件)に対し、夢想や理想や感性でもって、言語芸術による創作活動をし、そして現実を生きているのかもしれない。あちらこちらに、理解されない、理解しえない、とらえきれない、悲痛さや哀切さも時にあるだろう。彼らが、詩の世界の希望や革新に貢献をしたり、あるいは自己の詩の世界を確立したり、冒険をしたり、あるいは大いなる挫折をしたりしている。現代詩はいつ滅びてもおかしくはない状況ではあるのだが、意外と命脈をまだ保っている。すでに現代詩が滅んでいることに気づかずに詩を書いている、というブラック・ジョークもあるが。
 しばらく前に、吉本隆明が『日本語のゆくえ』(光文社)の中で「若い詩人たちの詩は「無」だ」とそのようなことを発言していた。その言葉をどう受け止めればいいのか、いろいろな反応はあり、話題になった。いわゆるゼロ年代/二十代から三十代ぐらいの若い詩人たちの詩集を三十数冊程度読み、語ったことである。その多くの書き手は、日本の現代詩の比喩、神話、自然といったものから離れた、脱出口のない若手の詩人たちの作品と吉本は見て取っていた。その何割かは詩でもないと、若い詩人たちの詩集は良くないという意味で「無」という発言をした。
それがある程度当たる部分もあれば、疑問に思う部分もあるのだろう。現代において、世代の違いや世の中の変質していくさまにおいては、物事を読み取るのも難しい部分もあるのかもしれない。現代詩の先行の年代とゼロ年代の断層というものか。
 ここでわたしがしたいことは、若い世代の詩の解釈や読解、現代詩というフィールドの現状認識である。なお著者名と詩集名の前にあたる、冒頭の数字はそれぞれのシリーズの番号である。

●思潮社「新しい詩人」シリーズ(現代詩手帖)。このシリーズは12点ある。細長い判型の本で、ソフトカバーであるが、装幀が良い仕上がりとなっている。一人ひとりの作者において独自の詩の世界が確立されている。

1・小笠原鳥類『テレビ』。その多くが長編詩である。「グラフ」にあるように、
「暖かい色の、犬と一緒に食べるパン及び犬の食べ物の乾いた塩味<干物のような>テレビで動物を見ながら揃って食べること。」
テレビを見ながら、同時並行で食事をしていくという日常の描写から、さまざまな事柄に対する過剰なあるいは偏執的な希求を見いだしてしまう。生物、静物、味覚、音声、色彩、わたしたちは実に多くのものに囲まれていて、フィルターを通して、選別していくのだが、その網を通らない無数の・無限の在る物たちへの、眼差しがある。現代詩手帖賞、歴程賞受賞など。

2・キキダダマママキキ『死期盲』。岸田将幸の吃音からのこの詩集制作時のペンネーム。複数の受賞歴もある。
 作中の「Digital Rainbow(s)」から引用する。
 【底なく落下】/【壁なく前進】
(誰一人も、真似出来ない)

男の瞳はテレビジョン/
頭上に未確認飛行物体、前髪として着陸する

やさしい悲鳴、が目眩を覆ったブラックホールを看過
し、ながら
真っ白い下唇を離れ/
「静脈が爪の先に引っ掛かって透明の液体、
 滴らせている背後に鉱水が降っている」
意味とイメージの飛躍や断絶があり、悲痛さと過激さがある。岸田は、颯爽と詩壇に登場した感もある。
以後、誌面の文字数の関係上、簡潔に各作者と詩集について記していく。

3・手塚敦史『数奇な木立ち』。ここにはある種の新しい抒情性と甘美さを感じ取れる。優美な詩風である。

4・三角みづ紀『カナシヤル』。その生い立ちや宿業や受難、詩と詩を中心にした映像芸術や音楽とのコラボのパフォーマンスや小説など多彩な活動において、表現や在り方を発揮している。その詩は病や生きることの痛切さと悲哀を根底にしている。独特なポーズと声の、ボーカルパフォーマンスもライブ活動で見せている。現代詩手帖賞、中原中也賞などいくつもの受賞歴もある。

5・コマガネトモオ『背丈ほどあるワレモコウ』。痛切さを感じるほどに、繊細かつ優美である。現代詩手帖賞受賞者。

6・斎藤倫『オルペウス オルペウス』。ギリシア神話をテーマとした、ユーモアと柔らかさをもった世界である。

7・石田瑞穂『片鱗篇』。これは異界への旅ともとれる、痛みとエロス性もある詩などで構成されている。あちらの世界の片鱗がそこにある。現代詩手帖賞受賞者。

8・久谷雉『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』。淡い情感、ゆったりとした抒情性というものを感じる。中原中也賞受賞者。

9・杉本真維子『袖口の動物』。暗がりにひそむ存在の目。底知れない気味悪さと情動を感じる。読み手が安易にはとらえる・扱うことのできない、詩の言葉たち。本作でH氏賞を受賞。現代詩手帖賞受賞者。

10・藤原安紀子『フォ ト ン』。白い闇を思わせる紙面に、白い光を思わせる詩句の言葉・活字が浮かび上がる。言葉は固まりとして、振動としてそこにある。歴程新鋭賞受賞者。

11・永澤康太『lose dog』。中期以降の吉増剛造を彷彿とさせる詩形。大きな字体と、小さな字体との組み合わせによるノイズ。現代詩手帖賞受賞者。

12・水無田気流『Z境』。「Z境/告解(ハジマリ)」など、境界を越えていく日常性と世界性の詩の言葉。「世界同時多発トロ」などユーモアもある。現代詩手帖賞受賞者。

駆け足で見てきたが、書き手のいろいろな個性やスタイルがあることがわかり、スリリングな読書体験をすることができる。

●土曜美術社出版販売「現代詩の新鋭」シリーズ(詩と思想)
次に土曜美術社出版販売「詩と思想」の<現代詩の新鋭シリーズ>16巻(続刊は未定)。ポップでカジュアルな装幀の本に収められた作品は、シリーズを通して、まだこれからという発展途上の書き手たちの作品である。今後の成長を期待したい、期待できる新人たちのシリーズである。特に伊藤、高岡、岡田、ブリングルには、今後の展開に期待感を抱かせる。またブリングルは発表後1、2年で一つ、二つ脱皮した感がある。

1・伊藤浩子『名前のない歌』。ジャック・ダニエルと兵士たちの不可思議な虚構の連作詩。この作者は実力があり、今後もっと大きな作品を読んでみたいと期待させる書き手の一人。後に詩と思想新人賞を受賞した。

2・高岡力『新型』。表題作「新型」など、詩の世界の筒井康隆と称したいほどの逸脱、詩の構造を内部から壊していくかのようなその作品群は、ユーモアや過激さもあり、痛快ですらある。

3・岡田ユアン『善良な沈殿物』。この作品後、才能を開花させていくのだろう、まだ芽吹きのような状態の段階の感性と詩句たち。この後、詩と思想新人賞を受賞。生来ユニークな書き手として成長する作者の、出発点の作品という感じがする。

4・野田順子『恩寵』。例えば表題作でもある「恩寵」では、子宮摘出手術をすることは、子どもを産まなくてもよいということだと、それを「神からの恩寵」であると、話者は独特の解釈をしている。生きていく、生活していく日常の底にある、ある種の憎悪や嫌悪が見え隠れする。

5・りょう城『はるつぼ』。平明な言葉によるまろやかな詩世界。一見あまり取っ掛かりがないようにも思えるが、しなやかな感性が見て取れる。

6・東京子『恋人達へ』。京都、箱根、鎌倉を舞台にした恋愛抒情詩であり、ドラマがある。

7・前田利夫『虚空に繁る木の歌』。甘美さのあるロマンチシズム性、蒼白の幻想と病の抒情性のある作品。

8・渡ひろこ『メール症候群』。メールやネットやバーチャルな世界を遊泳する世代の感覚というところか。本作で福田正夫賞受賞。

9・ヤマモトリツコ『はみがきおじさん/らっぱ男』。収録作の「美しい死」に見られるような「死にたかったのではなくて/生きていることが面倒くさくて/手首をちょんぎってみた」などに、乾いた、そしてあっけらかんとした感覚がユニーク。

10・平川綾真智『202. 』。引用符付きのメール文書(に擬したもの)を、詩に組み込むという詩形をとったものもある。「だっせえ」「せせせせ」「ええええ」などおなじ言葉の繰り返しや、句読点を行頭に持ってくるなどの詩法。同世代のうっくつした気分を共有する、そういう抒情性がある。本作で、渡鹿芸術会新人賞受賞。

11・奥主榮『日本はいま戦争をしている』。太平洋戦争時から2009年(作品が書かれた時期)まで、日本は戦争をしている、という。現在の日本は平和に見えるが、しかし延々と戦争をし続けているという、思想性をテーマに持つ詩集。

12・長井一樹『びにーるぶくろ』。ひらがなを多用した詩法で、家族の残酷な物語を少年の口から語らせている作品集。

13・宮城隆尋『ゆいまーるツアー』。沖縄の米兵によるレイプ事件や、戦時中の従軍慰安婦事件などを題材にとり、不条理な事柄に怒りをもって揶揄したり、叫んだりしている。

14・ブリングル御田『次 曲がります』。ユーモアがあり、切実性を抱えた、アクロバティックな作風を持つ。後に実力をさらに発揮して、現代詩手帖賞を受賞するが、この詩集発表時にもユニークさが見られる。

15・長居煎『恋々マトリョーシカ』。ときおりユーモアを交えながら、例えば「トンネル堀りのゆめ」のように革命や世界平和を希求している作品もある。

16・山内理恵子『青い太陽』。夢と幻想の揺れによって、やわらかで、時に切ない、ユーモアや痛みのある詩の世界を構築している。

 一通り見てきたが、詩と思想の「現代詩の新鋭」シリーズは、書き手がこれから成長していく、という発展途上としての「新鋭」でもある。そのなかで一歩リードしてみせたのが、伊藤浩子(詩と思想新人賞受賞)や高岡力で、そのあとに続いたのが、例えば岡田ユアン(後に詩と思想新人賞受賞)やブリングル御田(後に現代詩手帖賞受賞)であった。また渡ひろこも福田正夫賞を受賞した。
 ここで若い世代の詩について傾向性を探るということはしない。いまここに若い詩人たちが、思い思いに、生きて、悲しみ、喜び、そして歌う、その姿を見るだけで十分である。実年齢やキャリアはともかくとして、現代詩が盛り返しを見せるか、それとも滅ぶかは(三十年来言われ続けたそうだが)、若い世代の活躍ぶりにかかっているのかもしれない。
 またこの2つのシリーズではないが、受賞歴等は省くが、中尾太一や安川奈緒や文月悠光や最果タヒや渡辺めぐみなどが活躍をし、あるいは加藤思何理、浅野言朗、望月悠馬、広瀬弓、石川厚志、颯木あやこなど今後期待できる新鋭たちもいる。まだ詩集を発表はしていないかもしれないが、例えば中村梨々など、次を狙う新しい書き手も当然いる。

 最後になるが、詩集制作に関しては、日本の詩の世界の特殊な出版事情というものがある。一部の例外を除いて、出版費用が捻出できない書き手には、作品の質や将来性とは別に、活躍や発表の場や発言権が与えられにくいというシステム。
 実は詩の世界が、経済的なものと政治的なものと媒体・メディアによって、少なからず左右されるということは、純粋な思いで詩を書き始めた書き手にとって一つの驚きと嘆きがあるだろう。書き手もまた戦略性を必要とされてきているのだろう。


(「詩と思想」20011年11月号掲載/光冨いくや名義)


「ダーザイン」という存在について


 ダーザイン(現存在=そこにある存在)、あるいは武田聡人。彼は、奇矯な言動とパフオーマンスにより、地下ネット掲示板では有名人であった。北海道の大学で、ハイデッガーを研究し、詩を書く学友もいた。大卒で、社会労務士の資格を持ちながらも、非正規社員の警備員として、北海道で、豪雪のなか、除雪車の後ろを何時間も走り続けるという、過酷な生活を続けていた。どのメディアよりも先鋭的なアニメ作品に通じ、電脳空間の聖少女の姿を追い求めた。
 彼はネット詩第一世代を自認している。権威ある現代詩の商業誌を名指しで批判した。そこで活躍する現代詩のトップランナーたちを罵倒し続けた。
 彼はある時、S.S.という若手の小説書きをネット上で発見する。S.S.を精神的支柱にし、文学極道という、ネットの大きなサイトを、仲間とともに作った。彼の元に集まったスタッフと、ネット詩を代表する発起人たち。そこに多くの投稿者たちが集まった。そのなかには、文学極道ではじめて詩を書いたというひとたちもいた。彼らは、活字詩誌とは違う考えと作風で、新たな詩の世界を創ろうとした。
 また活字詩誌でも活躍中の詩人たちも、掲示板に詩を置いていくこともあった。だれであろうと、よくない作品と思われれば、凄まじいほど叩かれた。
 彼は自分たちこそが、現代詩であると、そう主張する。そして既成詩誌の現代詩人たちこそが詩をダメにした元凶であると。彼は、権威ある誌のひとたちからは、ひどく怒りを買っていた。その誌とは、「詩と思想」ではないが。
彼は武田聡人の名で、詩学社から厚みのある詩集『えいえんなんてなかった』を発売していた。彼と一度会ったことがある。誠実で謙虚な男であった。本当は優しい男でもある。
 彼の詩は、散文詩にその特徴がある。世界観の重厚さと、悲しくも優しい狂気と幻想、電脳的かつ妄想的な、科学用語による宇宙論的な、存在論を踏まえた哲学。そして良い意味での叙情性もある。彼は叙情詩の復権を望んでいた。ただ奇矯な振る舞いと罵倒という手法、言葉のセンスに好き嫌いはある。また活字誌に対するルサンチマンを指摘されることもある。しかし、それらの点を補う長所として、未完の大器を感じさせる文学性がある。彼の詩は、無残で不条理なこの現代の現実社会と、そこに佇む少女や女性の聖性を描写できる筆力がある。その世界を視ている哀しい男は、一体だれであろう。彼、ダーザインである。

(「詩と思想」掲載)

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