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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年10月号
詩の多義性。

前に「実を言うと、これが正しいという「詩の読み方」というものがあるのかどうか、わたしは知らない。」と「詩と思想」七月号の詩誌評で書いたわけだが、別の言い方をすると、詩の多義性ということになる。詩の読み方も書き方も、自由でよく(自由であるからこそ、縛りや括りもでてくる。あえて自ら制限を加え、不自由を課すこともある。また自由といっても、悪意で読まれても困るが)、これだけが絶対的に正しい読み方、書き方であって、それ以外は認めない、というものはない。一つの詩に何通りの読み方や書き方があってもよいということ。わたし自身詩を書くときに、一つの作品や言葉に何通りもの意味やイメージなどを重ねることもある。多義性と、言ってよいかと思う。そういう意味では、わたしは詩というものをもっと広い範囲で捉える。
従いこの詩誌評では、現代詩手帖系の作品も(「現代詩手帖」から直接引用することもある)、ポエム系(ラブ・メッセージ)も載せている。なぜならば、現代詩もポエムも、それぞれ詩のなかの一形態、一ジャンル、一カテゴリーにしかわたしには見えないのだから。では順不同・敬称略で。

「五度高く」二号(軽谷佑子個人誌)
「ライクディス」軽谷佑子。
「とても遠くで
信号が青に変わる
かけだしていく
腫れて熱くなる
風にこのように吹く

人を殺して
帰る夕べ風が
圧せばいいビルの
まっすぐな線にすべっていく」
 前半の2連を引用した。一見、日常的な光景の出だしだが、2連目「人を殺して/帰る夕べ風が」で、一瞬驚きが起こるかもしれない。読み返すと、何気ない冒頭の「とても遠くで/信号が青に変わる」も、意味深長にさえ思えてくる。日常性のなかで、違和感や異化作用がこの「人を殺して」で生まれる。そして、この作者独特の改行位置である「人を殺して」と「帰る夕べ風が」というズラシとも思える技法に独特なものを感じる。詩は細部に生まれるとまでは言わないが、重要な要素ではある。
 暑い日、信号の道を駆ける、その時吹く風、「人を殺して/帰る夕べ風が」吹く。そして、周りが止まり「凪いでいる/すきまから抜けだす/耳が切れた」、とたたみかける。「風景が普段の/かたちをなくしなだれこむ/夜の部屋の開かぬ/窓辺わくだけが残る」の連は既成の日常が瓦解していくようでもある。最後に「ほら/風はこのように吹く」(Like this=このように)と結ぶ。一見平明な言葉を使いながらも、作品世界に底の知れないところもあるようだ。

「Poem ROSETTA VOL.7」(編集人・角田寿星/出版人・蛾兆ボルカ)
「予知するワタクシ」蛾兆ボルカ。
「ワタシは予言する

 今度の休日
 私は江ノ島に行くだろう」
 で始まる詩の1連目。「ワタシは予言する」にしては、休日江ノ島に行くのは大した予言ではない。「空は深く/海は青いだろう/裸弁天様を拝むだろう/風は冷たく/岩は海の泡に洗われて/黒いだろう/昼ごはんにはシラス丼を食べるだろう」、そして「それが啓示だ」とするが、これは予定・予想・予告であろう。そして2連目には自分の娘に嫌われ、両親が他界し、退職する日がくるであろうと、予言する。これもまたよくあることである。ここまでは「予言」というより「予想」である。3連目になると、情緒的なことや健康状態について予言する。そして4連では「そして私は予言する//水曜日が炸裂する//木曜日が爆発する//金曜日が膨張する//土曜日が誘惑する//日曜日が産卵する//月曜日は来ない//火曜日が燃え上がる」とある。ダブルスラッシュは、改行位置で、一行空きということになる。
 まるでキリスト教の神が世界を一週間で創造したように。そして「そのあとで/一週間が/水曜日から始まる//それが啓示だ」と結ぶ。「創世記」をなぞり、自分なりに書き換えたようにも思える。ただ一つ、タイトル「予知するワタクシ」から来た「予言」かもしれないが、神の啓示であれば「予言」ではなく「預言」であるほうがよいかもしれない、とも思った。ごく何気ない日常的なことから始まる「予言」が、やがて神の創造を思わせる「予言/預言」へと拡がっていく様は面白い。

「永劫回帰 1994 夏」ダーザイン。
「1994年6月、僕は早めの夏季休暇を取り、道北の誰も居ない海触崖の上にテントを張って終日ぼんやりと海を見ていた。カモメが一羽、空にピンで留められている。」で始まる散文詩。ダーザインというペンネームはハイデガーの「現存在」から来ている。道北は作者の住居であるのだろう北海道の地。小説を思わせる描写から始まる。やがて次の連で、「廃園直前の遊園地にある観覧車の中で/佳子にフェラチオをしてもらったことがある。/ほとんど客のいない広大な園地に立つ係員たちは/何か不条理な罰を受けてでもいるかのように突っ立って/まばらに立つ人々の影が/やけに長かった。」
 この作品ではスラッシュは原文のママで、改行位置ではない。生々しい部分もある、この作品、あるいはダーザイン(武田聡人)の詩世界においては「永遠」というものが重要なキーワードになる。作者の既刊詩集のタイトルにも「えいえんはなかった」とあるが、この作品でも他の作品でも繰り返される「永遠」と狂気性・超越性・神性の女性あるいは電脳的・妄想的な聖少女のイメージ。
「女の身体は天の川の宝飾細工だ。白い肌に銀河が渦巻いている。彼女の瞳はオッズアイ。エメラルドとガーネット。瞳を覗き込むと「預言」が記されている。」
 その女性は話者の男に問う。
「「えいえんってあるとおもう?」」 
それはダーザインの道北の風景と廃虚のイメージ、科学的・宇宙論的記述と、荒んだ現実と甘美でもあり切なくもある夢想のイメージ、そして狂気と、すさまじいほどのリアルな膨張と崩壊の終焉は、悲しい結末となる。たとえばこのような部分。
「原子炉の炉心を妖しく照らすチェレンコフ光の青の中で、彼女はセーラー服を初めて着たころの少女の姿に変容している。私は彼女を抱いて、さくさくと夜花を踏みしめ、海辺の草原をゆっくりと、果ての果てに在るだろう、放射性廃棄物最終処理場へと向かった。」
 ラストはあえて引用しないが、女性の顛末と、キーワード(の答え)が記されている。その結末は、美しいほどに無残だ。作者は、存在論的テーマを追い続けている。
 この誌の特集は「預言」。詩人の一部は本来、預言者であり、神話の作り手・担い手・語り手であったと思う。

「うたがわ草紙Ⅱ」(発行者・廿楽順治)
 これが詩誌になるのか、詩画集になるのかは、わたしには判断つきにくい。版画は、宇田川新聞、詩は廿楽順治となっている。
 B5判ほどの白い用紙に、カラーの版画と、廿楽の詩が掲載されている。糸や糊やホチキスなどでは綴られていなくて、数十枚の紙を、透明な袋に収めている形式。
 その中から、セクシャルな作品を。
「水のおんな」廿楽順治。
「おんなは水につけておくのがいちばんだ
東京の水道だって
味はずいぶんよくなった
死んだおとうさんは蛇口にくちをつけたまま
じゃぶじゃぶと
出てきたおんなごとのんでいた
こんなはずじゃなかった
おんなだっておなじことをおもっていただろう」
前半部分を引用した。「おんな」と「水」は近接的であり、象徴性として通底している。エロティシズムがあり、また荒唐無稽な部分でもある。「死んだおとうさん」が話し、水道の蛇口から水を出すように、「おんな」を出し飲んでいるのだから。後悔も伺える。版画も品の良いエロスがある。
 ほかに「分析太平記」では「だれかのでっかいおちんちんに苦しめられる夢をみた/まあこれも文学だとおもってがまんしなさい」という出だしの作品など、なかなか面白い。いろいろな作品が収められているので、好みを探すのも良いかと。

「日本未来派」二二一号(編集発行人・西岡光秋/発行所・日本未来派)
「置き忘れたリュック」細野豊。
「黄泉の国から来たので 車内は薄明るく湖からの潮の匂いを孕み
男の乗客は異国からの闖入者である俺だけで
黒い山高帽をかぶったアイマラ族の女たちが 影絵のように
みんな赤子をひとりずつ背負って座っている」
 これは夢幻の世界の、もうひとつの現実であるのかもしれないのだが、「黄泉の国」からきた「俺」(つまりは死者かもしれない)は、ボリビアのラパス市を訪れている。その地では、(男の記憶では)現実にはあるはずのない地下鉄に乗って。アイマラ族の女たちがいる光景で、旅行をしている「俺」。それはどうやら夢であったことがわかる。「居眠りしたかと思う間もなく 日本のわが家の布団の中で目が覚め/あのカフェテリアにリュックを置き忘れたことを気づく」。そしてラストでこう結ぶ。
「あの中にはパスポートや財布ばかりでなく
 ただ一度かぎりの大切な記憶も入っているのだ
 取りに引き返そうとするが どうしても夢のへ入口が見つからない」
 夢と現実、記憶と思考が、多元宇宙のように交差する。わたしたちは夢と現実の世界を、毎日旅しているのかもしれない。幸福であるかどうかは別にして。
 
「索通信」九号(発行・坂井信夫)
「タダイの末裔―17」坂井信夫。
「すでに死者となったKは、かつてこう記した――「たったひとりで世界を変えることができるか」と。そう自問したとき、世界はいつも変えられるべきものとして出現した。」
「男」は「T字架」(「男」つまりイエスの時代では、十字架ではなく、T字架であったという説)に吊るされた。「もうひとりKの脳裏には、詩人にして思想家のYが宿っていたにちがいない。同時代人の……」とあるのは、キリストとヨハネを連想させるが、英語表記では、「Jesus(ジーザス)」と「John the Baptist(洗礼者ヨハネ)」である。「男」はキリスト。では、KとYは?
「KもそしてYも、みずからを〈非信〉の者としていた。この二千年のあいだ、人びとは弧絶よりも群れをえらんできた。」
 そしてラストでは、
「いまでも、かつて住んでいた団地の二DKの壁には、まるで呪文のように、「たったひとりで世界を」という文字が、うっすらと泛びあがっている。」(誰の住居か?)
 怪談の一場面ではないだろうが、実は、誰というよりも、近・現代人(非信の者)の姿なのかもしれない。そしてタイトルにある「タダイ」とはユダの別名である。(イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別人)つまりは、こうなる。ここで語られた一連の連作は、タダイの末裔、つまりはわたしたち近代・現代の〈非信の者〉のそれぞれの姿であったのではないかという憶測である。残念ながら、連作の、最初から最後までを通してわたしは読んでいないので、確かなことはわからない。少なくても、17作はあるのかもしれない連作のうち、いままで読んだ3作程度で思うことである。いずれ、一冊の書物に収められたときに、その答えをわたし自身で見つけるだろう。読みの愉しさである。ジグゾーパズルか推理小説のようで、読み間違えたとしても、一興ではある。

「裳」一〇九号(発行人・曽根ヨシ/発行所・裳の会)
「刑場跡の春」佐藤惠子。
「中仙道に架かる柳瀬橋から
東下流の突堤まで
この春の烏川堤防は
菜の花が埋めつくして」
 美しい春の、のどかな一光景から始まるのは、序章としてこの後の「刑場跡」について語れる対比として効果的である。
「江戸時代 幕府滅亡までの七十五年間
柳瀬橋より西の 切り立つ崖上に
岩鼻陣屋の牢獄あり
橋から五十米ほど東の河原の処刑場では
斬首 獄門の刑も行われ さらし首は
爺婆たちの言い伝えによれば
「昔の木橋のたもとにいつまでも
いつまでも置いてあったんだとさ」」
刑に服し、死ぬのは一瞬ではある。そして恨みつらみは死後百年、千年尽きぬことはないかもしれない。なぜならば、ひとの魂はそうやすやすとは、消えていかないと、わたしは思うからである。
それでも「「南無妙法蓮華経」の塔」を建て、やがて大水で刑場の跡も流される。
「幾百年経ようとも 時として天は
 刑場に消えた有罪の冤罪の咎人たちの
 慰霊 鎮魂のために使者を遣わし
 この春 遣いの天女はここ岩鼻刑場跡の
 土手一帯に菜の花の衣を
 いい匂いの蜜色の衣を
 ふうわりと掛け天空へと去って行ったと」
 有罪であろうと、冤罪であろうと、死と共に全ての罪は許されるのであれば、迷う霊もない。瞑目したい気持ちにもなる。咲き乱れる花が救い。この世は生き難く、そして死んでゆく者も、残された者も、つらく、やりきれない。それでも残された世界に美しさがあるのは、天の恩恵かもしれない。筆力が確かな作者の作品とみた。
 
 
 

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