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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年11月号
詩の維新

いまちょうど、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映されている。それになぞらえて、すこし触れてみようかと思う。遊びだが。
詩の時代における新たな夜明け、それは現代詩のピラミッド、あるいはヒエラルキー(階層)の崩壊あるいは再編である。この頂点に立つのは内外に評価のある一握りの詩人たち(芸術とはそういうものかもしれないが)。それは一つの雑誌に認められた存在(権威)。いくつかの階層や大小ピラミッドがあるが、おおよそ垂直方向の力学と同じ階層においては、水平方向のつながりがある。そして、どうしてその雑誌がそのような特権的位置を得られたのか、それは言語実験の試みであり、詩壇ジャーナリズムの形成によるものである。現代詩の人口推定1万人のうち○割が「現代詩手帖」、○割が「詩と思想」を形成と見られる。
 では、蒸気船や新式銃に当たるものはなにか、たとえば、いわゆる「ネット詩」などのインターネットの投稿サイト・掲示板や携帯サイト、iPodなどの電子書籍(外国産のだけに「黒船」か)かもしれない。
どれが幕府で、どれが長州藩で、どれが薩摩藩で、だれが新撰組で、だれが海援隊で、だれが奇兵隊かは、みなの想像力に任せるとして。
わたしは詩の世界の再編成、再生を願う。ひとつの世界が変わる時、体制の硬化、それは底部と外部からの新しい波によってなされる。「ネット詩」により、だれでも作品を発表できるようになり、ピラミッド構造によらなくても済むようになる。電子書籍もこれから本格的に導入され、権威に認められていない作者が、次の主役のチャンスを得る可能性も出てくる。
強引な展開かもしれないが、詩における「詩の夜明けは近いぜよ」という感じだろうか。それは否定や破壊ではなく、創造。既存の権威の頭上を超えること。では、順不同、敬称略で。

「そうかわせみ、」創刊号(編集・相沢正一郎/発行・そうかわせみ、の会 一色方)
「し」一色真理。
「私は黒い。私は文字だからだ。私はあの人が母を愛し、「ああ…」とうめいて母の上にもらした小さな、さびしい文字だからだ。

あの人は母を捨てた。一枚の白い紙は風に吹かれ、人々の靴底に踏みつけられ、薄黒く汚れていった。けれど、私は母よりも、泥よりも、夜よりももっと黒かった。私は母の体から消えることのない、真っ黒な痣のようだった。」
 ここでの登場人物は「私」「あの人」「母」、それから後半に登場する葬式のあとの「母親」「少女」。「私」は「文字」であり「し」。一枚の紙に「し」と一つだけ書かれた文字である。「母」は紙。「あの人」は書き手。
「少女」によってようやく「私」は読まれ、わかってもらえた。「少女」が葬式で覚えたばかりの言葉でもあった。
「あの人は母の体にそう書き残して、この世界からそっと消えていったのだ。誰にも知られずに、たった一人で。」
「し」とは遺言のようでもあり、存在でもあり、生きた証でもあったのだろう。思うに、言葉も人の思い出も、あるいは詩も、それを残していったひとは、「し」によって消えていき、その痕跡をわずかに残すのみである。場合によっては、その痕跡さえも消えていく。見出されたものの幸運とも言えるかもしれない。それは一つの詩の姿でもあった。

「シーラカンス」四号(編集/発行・茨城詩壇研究会)
「瓦礫」戸浦幸。 
「瓦礫のなかをスズメたちが遊んでいる
爆風で吹き飛ばされたマリアの身体(からだ)
かろうじて残された頭部
小さな眼窩はスズメたちの
かっこうの隠れ場
 くすぐったいわ
 だれですか
 わたしの眼をふさいでいるのは」
 長崎の原爆投下で残された教会と町の残骸と記憶。ひとの世がある限り何度でも訪れるこの日。沈黙と祈りの日である。この詩において多くを語る必要性を、わたしは感じない。
「右半分のお顔が黒く焼け焦げ
眼は空洞に
なおいたましく微笑む
さんた・まりあ」
(補足として。戦争に関して私見を述べることは、ここでは語り切れないので省く。それは深刻、繊細、微妙で、単純な感想や感情やスローガンを記すことができない)

「緑」二四号(田中郁子個人誌)
「研ぐ」田中俊輔。
「お米を研ぐ
 冷たい井戸水で研ぐ
 右手の甲が冷たくなる
 白濁色が澄むまで研ぐ」
 日常の一風景のようにも、一見思えるが、こころを研ぐように、米を研いでいる。そしてそれは、生きるための行為でもある。
「今日も明日も
 おれは研がねば
 生きることさえ苦痛になる」
 偏執的であるというよりも、純粋に切磋琢磨していくさまに思えるその行為は、
「食卓にいつの日か
 新しい人が来るようにと
 おれはいつものように
 研ぐ」
 という希望でもあり、来訪者への迎えるための誠実な行為でもあるようだ。

「受胎告知」田中郁子の散文詩にも興味をもった。
「数ある「受胎告知」の絵の中で フィレンツェにある サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの壁画が好きだ」で始まる作品。絵を見ていると、「わたしはいつの間にか僧院の庭の中に立っている」。
 絵の世界に入り込み、「その時だけマリアと天使の肉声に聞き耳を立てている」と結ぶそれは、絵を媒介にしての、聖霊との交信・交流とも解釈できる。幸福なひと時。

「モーアシビ」二二号(編集発行人・白鳥信也)
「明るい足音」五十嵐倫子。
「―月がとっても青いから―(※)

そんな理由じゃあないんだ

遠回りして
家とは反対方向のコンビニで
ペットボトルのお茶を買って
またいつものベンチに腰かけて
月をさがしている」
 一見、ライトな感覚であるが、家の鍵を開けることに、躊躇もある。実は家庭・家族の微妙な葛藤やためらいのようなもの、子供のころの母に言われていた「もっと笑いなさい ぶすっとしていないで」に、「楽しくもないのに なんで無理に笑わなくちゃいけないの?」と思っていたが、自分も母が「私」を産んだ歳になってしまった。
「母はいつも 笑っていた
簡単じゃあなかったはずなのに
もしかしたら
帰りたくなる家は自分で作るのかもしれないね」
 そう悟る話者は、
「今夜も月が照らしてくれるから
 ローファーのつま先をトンと鳴らして立ち上がろう
せめて明るい足音で
かっぽ かっぽ 闊歩」
 と軽やかに歩いていく。夜道を、自分の人生を。三十代ぐらいの世代だろうか、女性の繊細さと前向きさを感じさせる、良い作品だと思った。

「詩遊」二七号(編集発行人・冨上芳秀)
「おっぱいの話(一)」井宮陽子。
「ブラウスの上からこわごわ胸に触れた彼は「全部ほんもの?」と聞いた。うなずくしか仕方なかったけれどデリカシーに欠ける言葉かと思った。体重のわりに胸が大きかった私はみんなの視線がいつもそこにあるような気がして恥ずかしくて仕方がなかった。彼の素朴な質問は何よりも残酷だった」
 乳がんかもしれないが、女性にとっては命に関わる問題でもあり、切除手術は、デリケートな問題でもある。エッセイ的な散文詩であるか、あるいはエッセイなのかもしれないが、夫と妻の微妙なやりとりのすれ違いを描いている。

「空飛ぶゴースト」辻井啓文。
「病院に運ばれた。それは覚えている。尿が出ない。尿を出すために看護師が管を入れたはず。管を入れた記憶がない。痛いかもしれないと看護師が言った。あるはずの痛みがない。ベッドで寝ている。」
 尿を出す管を入れた話者の、看護師とのユーモラスなやりとりのなかで、窓の外にはゴーストがいたという展開。そしてラストでは、
「あきらめて導尿管をぬく。ゴーストの軽蔑するような笑い声がする。おれはオムツにお漏らしをする。」
 なんとも思い通りにならない患者の話であった。

 では、本篇では(このあと、番外編として、同人誌ではない詩誌3つに触れたい)、最後に、さわやかな誌と作品を。
「木立ち」一〇六号(編集発行者・川上明日夫/発行所・木立ちの会)
「AIRPORT」川口晴美。
「ホームの先端に
夜のあたたかい風が吹き抜けて
空港へ向かう列車が滑り込んでくる
言葉を交わしながら並んでいたひとたちのふわり黙った唇は花の色
薄い春のコートの裾が翻り
やわらかくみだれる髪を押さえるそれぞれの細い指先に
誘われて
ではなく
開いたドアをじぶんで選んで
どこかへ飛び立つあてはないわたしも
エアポートエクスプレスに乗車する」
 川口晴美といえば、現代の女性の、孤独感や漂白感を、散文体でドラマテッィクに、あるいは立体的に、イメージ強く描くことのできる作家だとわたしは思っている。一方、改行体の作品は、すうっと読めてしまう印象になる。洗練された大人の女性、その微細な視線や、もどかしい気持ちなどが感じられる。たとえば、
「窓の外を光る街はきっとあたりまえに走り去っていく
今日という一日のように流れてしまうその流れに」
 この誌はやや大きめは白い表紙に、「木立」「夏」など水色の大きめの文字に、水彩の絵筆で描いたような感じで、印刷されている。清涼感のある誌に仕上がっている。

 番外であるが同人誌ではない3つの誌に触れたい。書店の店頭か棚にも置かれているだろう。
「something 11」(サムシングプレス/鈴木ユリイカ)
 鈴木ユリイカ責任編集の誌。表紙にこれは何処の国の子供だろうか、色の黒い、髪型からすると、女の子のようにも見える写真。イ・ビヨンホの撮ったもの。
 川口晴美、北川朱美、村野美優、長田典子、鈴木ユリイカ他多くの詩人たちが参加。詩人自らの作品を4頁分選んで載せているもの。見開きの写真もあり、グラフィカルな雑誌である。

「洪水」六号(編集発行人・池田康/発行・洪水企画)
 詩と音楽の雑誌。特集は佐々木幹郎と西村朗の対談。瀧口修造に関する座談会や論考。詩と音楽のコラボレーション集団「VOICE SPACE」座談会など。執筆は嶋岡晨、四元康祐、小笠原鳥類、海埜今日子、中島悦子、瀬崎祐ら多数。

「びーぐる」八号(発行人・松村信人/発行所・澪漂(みおつくし))
 関西で作られている誌。高階紀一、細見和之、山田兼士、四元康祐の共同編集。
 清水あすか、文月悠光の新作とメールインタビュー。一色真理らの論考、岸田将幸、最果タヒ、中尾太一ら若手へのアンケート、それから入沢康夫らの作品という構成。書評、詩誌評、投稿欄、短歌評、俳句評など、バランスをとった内容になっている。

 寺西氏の「詩学」が終り、「詩の雑誌midnight press」も紙版が発行されなくなり、「現代詩手帖」と「詩と思想」「詩人会議」など詩誌をめぐる環境は厳しくなっている。ほかにも「文芸思潮」や「詩とファンタジー」や「詩と批評 ユリイカ」ほかまだまだ書店で手に入る誌もあるのだが、現代詩といえば、「現代詩手帖」しかないような印象を受ける現状は、果たして詩の世界にとって良いことなのか悪いことなのか。  
 詩誌、それは同人誌であろうと、個人誌であろうと、自分が持てる、自分たちが持てるメディアである。
 自分たちが一から企画をし、同志を集め、詩やエッセイやそのほか記事を書き、デザインをし、あるいは作家に作品を頼み、あるいは雑誌コードや書籍コードをつけ、あるいは書店に置いてもらうよう店主に頼み、あるいはネットのショッピングカートに置き、そうやって、作ることのできる、場であり、方法である。
 ワープロ用紙をホチキスで留めた誌から、印刷所に持ち込み、流通コードを載せる誌まで、そして電子書籍まで、わたしたちのできることは、作品を書くだけでもない。
 詩人は詩を書くことだけに心血を注ぎ、それ以外は知らないでもよい。けれども、さすればだれかが誌や本にまとめないといけない。いわば他者のためにすこし骨を折る志さえあれば、詩誌を作ることもまた意義のあることだと、わたしは思う。
 詩の世界はメジャーな詩人たちだけのものでもない。マイナーな書き手も、それを支える多くのひとたちのものでもある。
 

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