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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年12月号
<現代詩>を超えて。

わたしは詩に関することで、時折、思うことがある。たとえば、詩人とは〈人〉と書く。職業では必ずしもない。〈人〉であり、存在であり、生き方である、と。
 最近、小川英晴氏の評論集『POESY』を読んだ。また氏の言動を直接見る機会があり、わたしの冒頭の思いは、もしかしたらわたし一人のものではないのではないか、とそう思った。一部分を引用したい。
 「詩人として最も大切なことは、実は詩の出来不出来より、詩人としての生き方にあるのではないだろうか。自由にポエジーを育み、自らの想いどおりに人生を生きることは、意外に難しいことなのだ。」(小川英晴『POESY』(土曜美術社出版販売))

わたしは、こうも思う。現代詩は、実験のための実験に陥り、ポエジーという大切なものを忘れてしまったのではないかということ。
 詩は本来すべての芸術の根本にあると思う。そして、詩は諸外国においては愛され、詩人もまた同じく愛され、尊敬され続ける。
 そしてどうも現代の日本人が、詩と詩人に対して違う見方をしている。それは日本の詩を解さないひとたちが悪いのであろうか、それとも日本の現代詩人とそれを取り巻く詩壇ジャーナリズムが悪いのであろうか。わたしは詩を書かない人達から、現代詩や詩人の悪評や悪印象を直接聞くことが前々からあった。短歌も俳句も、そしてあらゆる芸術は愛されているのに、日本では詩は、近代詩とごく一部の現代詩までか。
 いまわたしはこう思う。〈現代詩〉から〈現代〉という冠を取り去り、ありのままの〈詩〉をもう一度見直すべきなのでなかろうか。それは、単純に過去の時代に戻るということではない。必要なのは形式・手法のみではない。形式は新しくあるべきだが。
 わたしが求めているのは技術的なことのみに終始しない本来的な〈詩〉の復権である。あるいは本物の詩である。内容としてのポエジーと形式としての詩法が高い水準で結合したとき、素晴らしい詩が生まれる。
 〈現代詩〉のうち、内容のない・乏しい・無意味・形だけの部分をわたしたちは超えるべきである。詩の本来的なあり方を見直すべきかもしれない。もう一度、詩を生き直そう。では、順不同・敬称略で。次回は最終回の総評になる。

「COAL SACK」六七号(編集発行人・鈴木比佐雄、佐相憲一/発行所・㈱コールサック社)
「DINK DIR」 Paul Celan
「Denk dir:
der Moorsoldat von Nassada
bringt sich Heimat bei, aufs
unausloschlichste.
wider
allen Dorn in Draht.」
「想像してみよ
マサダの埃だらけの兵隊が
刺だらけの有刺鉄線に対抗して
ぜったいに消えぬよう
祖国を目に焼きつけているのを」
(「想像してみよ」パウル・ツェラン 尾内達也訳)
 パウル・ツェランは、ドイツ系ユダヤ人の詩人。ナチスの収容所で肉親や仲間たちを失った。その悲しみを根底に、書かれた詩である。いわゆる「アウシュビッツ以後」の詩である。セーヌ河に遺体が発見され、自殺とも言われる。
マサダとは、要塞遺跡のことであろうか。ユダヤ戦争で集団自決のあった地とされる。
 わずか四連二〇行のその短い詩には、痛切な抵抗と祈りがある。彼の詩には、気高さも感じられる。

「裳」一一〇号(発行・裳の会/発行人・曽根ヨシ、編集人・神保武子、志村喜代子)
「初夏の風が」鶴田初江。
「生まれたばかりの
アオスジアゲハが
ハルジオンの草はらで
ゆったりと蜜を吸っている

静かにふるわす翅に
一列に並んだ紋は
水色の鍵盤
初夏の風が
かろやかに
たたいていく」

「春」鶴田初江。
「黄蝶と一緒に
坂道を下る」 
 
 二つの短い詩の全文である。説明するまでもないだろうが、すこし触れたい。
「初夏の風が」は、生まれたてのアゲハチョウが花の蜜を吸っている様子、風に震わす翅の繊細な感じをよく描写している。
それからたった2行の「春」は、話者が「黄蝶と一緒に/坂道を下る」その様子が端的によく描かれている。坂を下降するが、連れ合いに蝶がいる。詩で、余分なことを言わないという理想形の作品。

「ERA」第二次五号(発行人・中村不二夫/編集人・川中子義勝)
「ときの象り」川中子義勝。
「ほら 錠(かぎ)が開いているよ
青銅の扉に身をよせて押し開く
暗闇にようやく目が慣れると」 
冒頭部分を引用した。タイトルの「とき」は当然ながら「時」のことを指し、「象り」は「かたどり」と読むのであろう。哲学的である。そして「青銅の扉」から詩・〈時〉の世界へと導いていく。
「旅の途上ふと立ち入った湖畔の礼拝堂(カペレ)で
あなたの口に溢れ舞う祝いの歌に
彩色ガラスの人影が昔の呼び声を取り戻し

風琴(オルガン)が幾千年の調べを想い起こすとき
裂かれた傷 埋(うず)められた嘆きもまた甦り
砕かれた骨の祈りをふたたび輝かせる」
 「1 廻(めぐ)る時を」の章(あるいは部)から後半部分を引用した。
 たとえば1章はこのように読める。〈時〉の神秘の扉「青銅の扉」を開ける。そして「暗闇」から、〈時〉への「旅」を始める。そこは「御堂」であり、「宇宙」の広がりでもある。「風琴」が「幾千年の調べ」を奏で、過去から現在、そして未来へと続く、「ときの象り」に臨み、わたしたちは、「天地」の新生を見つめる、と。
 そして次の「2 時の馳せ場を」では散文体となる。
「旅の途上の辺鄙な場所 いつも思いがけない頃合いだった 三十余年も止まぬ戦乱の惨禍のなかを彷徨い 喘ぎながら ひとり荷車を曳く娘 あああれはあなただと呼びとめると 声に怯えたか」
 2章(あるいは2部)になると、戦乱のなかで、出会った娘と話者の話になる。濃密な文体でつづられる、運命的な男女のめぐり合いをドラマチックに描いている。たとえば前世、あるいは過去における異国(西欧)での悲恋のような。2章(2部)が全体としての比喩である可能性もあるが。これは〈時〉の邂逅であるのかもしれない。
 
「左庭」一七号(編集/発行人・山口賀代子)
「発熱」山口賀代子。
「からだのしんからじわりじわりとわきだしてくる
 いたみ
ときどきあるのだ」
 体の中からいろいろなものがわきあがる、「いたみ」「かたこり」などが「ねつ」とともに。中盤からは、「せいさく のない/くにのほうしん/こどもてあて」など、時事的・社会性・政治性のある事柄に移っていく。「たきつけてはおとす ますこみのけんしき」や「かんたんにことばをひるがえすどこかのちじのことば」が「わからない」。「わからないものが つぎつぎと、ふきだしてくる」。
 そしてラストでは、「ぞうきん」のようにしぼりだし、「しぼりきったあと」について語る。
「このちいさなうすっぺらいもの//わたし なのか」と自らを省みつつ嘆く。タイトル以外は全編ひらがなによる作品。

「る」四号(弓田弓子個人誌)
「目付き」弓田弓子。

「わたくしはわたくしを
どこまで記憶している
のでしょうか鉛筆を動
かしておりましたら見
たこともない姿が現れ
ましたそれでも目付き
などよく似ております」

この誌は十行詩が十篇掲載されている。そのうち「目付き」七行全編を引用した。これはこう読める。話者は紙(ノートや画用紙あるいは画布)に、記憶を元に自画像を描いてみた。けれどもそこに現れた人物は自分とは似つかない者であり、それでも目つきだけは自分にそっくりであったという。そこには、ただ記憶のあいまいさや描くことの難しさだけではなく、〈自分〉という〈存在〉について、あるいは〈自分〉のなかにいる〈他者〉について描かれているようにも思える。深読みもできる。

「豹樹Ⅲ」一二号(編集発行人・松木俊治)
「桜の精霊」神屋信子。
「精霊が宿るという桜の木を、ずっと探しつづけてきた旅だったような気がする。小さな小さなハチ鳥たちが、何処からか花びらをくわえてやってきて、桜の木に花びらを捧げ、咲かせるそうな。すると桜の木なのか、人なのか、霧の中に忽然と、その姿を現わすそうな。その一瞬の光景に出会うために、私は生きてこれたと思う。」
 話者の「私」は、精霊が宿るという桜の木を探し続ける旅(生涯)を送っていた。その後の連では以下のような概略になる。樹齢千年の樹があるというので、バスに乗り、谷川の奥に向かう。「私」はバスのなかで眠ってしまうのだが、寒気のする気配で目を覚ますと、満員の乗客のうち一人が降りていった。振り返ると、妹のような気がする。やがて、彼女は白い棒状のものとなって倒れてしまう。バスはまた走る。長い時間が過ぎた。次のバス停に止まると、年の離れた弟らしき人物が降りていった。彼もまた白い棒状のものとなって、さかさまに谷底に落ちていった。今度は走るバスのなかで、蒼い灯がともる。話者の心のなかにも蒼い灯がともる。乗客は僧侶らしい3人と自分だけになっていた。薄闇のなかを走るバス。自分と共に旅してきた物たちがある。鞄を開き、絵道具一式を出し、薄闇のキャンパスに「魂」と大きく描く……。
 ラストの展開はこう描かれる。
「と、薄闇のなかを華やいで、飛び廻る小さな小さな妖精たちが、魂のかけらを拾い集め、ざわめき始める。すると朧気ながら、精霊の気配が抽象の形を、模索しはじめる。耳を澄ませる。群れ飛ぶ気配を、羽音を、宇宙の声を私は感じている。目を閉じて、瞼の中にその光景のシャッターを切る刻を、息をつめて待つ。」
 比喩的な物語性を帯びた作品である。「桜の精霊」を探し続けている「私」は、人生の模索の旅のなかで、あるいは冥界・異界に入り込んでも、永遠の神秘を追い求めつづけていた、ということにも思える。そういった男を描いた作品と読めた。

「KO.KO.DAYS」四号(長田典子個人詩誌)
 ゲストの吉田文憲「ここに降りそそぐものを待っていた」。
「近づくと遠ざかる
ここに動いている影とともに
呼びかけ
呼びかけることによって
一瞬そこにたち顕れる声――」
 小さな字で、1頁目に中央に配されている詩句を引用した。題詞であろうか。
 次の頁からは、普通の字の大きさで、
「だれがこの光を受け取るのだろう。探し、めざめ、失い、待ち、求め、なにものかに命ぜられて、記憶が突然これを最後に消え失せる瞬間を、在ることが突然これを最後に忘れ去られる瞬間を生きている。「夏はここ百合の花が咲くのよ」……細かな網目のむこうに一点の光が浮かんだ。その光のなかから声がした。」
 たとえば「ここ」とはどこか? それは現世・現人(うつせみ)のようにも思える。「降りそそぐもの」とは何か? それは冥界からの光や死者の声のようにも思える。「川面」の「川」とは何・何処か? それはこの世とあの世の境にあるもの・三途の川であるかもしれない。
 たとえばこう読める。現世から、異界・冥界の声や光が現れてくる、神妙で奥深い世界を、言語でもって作り出している・捉えている・描いていると。
  
長田典子「湖」。
「追いかけられる怖い夢で目醒めたとき
 わたしはいつも思い出すことにしている
 幼い頃のこと
 生まれた村が湖に死んでしまったことや家族がはらばらになってしまったこと
 あの頃写した写真の一枚一枚
 家族写真や学校の記念写真
 もうとっくに封印されて失われてしまったものたちのことを
 そして自分に言い聞かせる」
 百数十行の詩である。怖い夢から醒めると、女性の「わたし」は、子どもの頃のことや、暴力的・強圧的な男と出会いや出来事を振り返る。それはトラウマのようでもあり、逃げてしまいたいものであった。
「わたしは逃げたの逃げ果たせたんだよ。」と。怖い夢や過去の出来事から逃げることができたことを、確認する。ラストの三行では、救われる気になれるかもしれない。
「わたしは逃げたの逃げ果たせたんだよ。
 もう何も怖がることはないと自分に言い聞かせる
 横で眠る人の温かい手にそっと触れる」
 夢のなかで、トラウマが蘇り、自分にもう大丈夫と言い聞かせながら、理解ある、愛のある男の手を握って。きっと大丈夫。
 
 

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