HOME > shishihyou20103

光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年3月号
「書かれたものの「おもしろさ」」

 詩誌評を始めたい。はじめに、わたしの評の取り上げる基準について。わたしの入手した詩誌(謹呈もあれば、自分で買ったものもある)について、個人的に印象に残ったものを上げたい。印象に残ったものとは、詩の内容と、本(詩誌)のデザイン・造り・コンセプトなど。またイベントやインタビューの記事や評論・エッセイなどもあるかと思う。
詩は言葉の芸術であって、どのような手法、題材、思想等をとっていようと構わない。また、読む側にとっては、書かれたものが全てになる。語弊があろうと、なかろうと、わたしは作品に「おもしろさ」を求める。わからないものの「おもしろさ」もあるが、ただわからないだけのものを「おもしろい」とはいわない。またあたりまえのことをあたりまえに書いて、「おもしろい」か、どうかは、作者の技量や姿勢や着目・視点ほかによるかもしれない。では、順不同、敬称略に、誤読を恐れず行きたい。

「ヒメーロス」十二号(発行・天使舎 小林稔)から。
「詩と批評」とある。薄手で、白地の表紙にレオナルド・ダ・ビンチ「弟子サライのデッサン」が置かれている。
「火」小林稔。
いくつかの連・場面において、「火」(炎)が何物かを燃やしていく。
「アルミ箱の浅い水で身を立てられず尾をばたつかせる鯉。
火粉を上げる炎が狭いお堂の真ん中で勢いづき、経文が女祈祷師の口から怒声のように吐き出され、炉のまわりに幾つもの赤い顔がつらなり忍従している。――隅々に視線をめぐらす幼い私がいる。」
引用の第一連は幼いころの「私」(話者)が見た光景であり、二連では小学生のころの「私」が見た火事の光景であり、それ以降の連は、TVニュースから流れる、失業者の焼身自殺について。
また十三階のバルコニーが燃えている連が続き、それまでの描写性よりも、ここでは観念・概念的な部分が出てくる。
「沃土、すなわち経験の地層に撤種された未生のロゴスが千のコードに群がり絡まる。私を呼び止めた言葉を紐解く者よ、あなたをもとめ、死後も私はさすらうだろう。」
そして最終連、最後の行に「エクスタシーの波動に導かれ私はすでにあなただ」、と転換し結ぶ。現代の世相も反映しつつ、「火」に快楽のようなものを感じ、そのある種の異様さは、話者の「私」だけではなく、たとえばこれを読む「あなた」でもあるのだと。視ることの、残酷さと悦楽に読み手も捉えられるのだろう。

「日本未来派」二二〇号(発行・日本未来派の会 西岡光秋)
「詩と評論」とある誌で、多数の同人が在籍し、号数も実に多い。詩のほかにも、韓日交流のイベント記事や詩や詩集に関するエッセイほか一二〇頁の内容。
その中から、一見素朴な感もある作品を。
「いたみ」野上悦生。
「にんげん
じぶんのいたみはわかっても
たにんのいたみは
けっしてわからない
わからないとしったうえで
しゅっぱつすることで
すこしでも
あなたのいたみに
ちかづきたい」
 全編ひらがなによるヒューマニズム的な作品。「あなたのいたみに/ちかづきたい」はより相手に踏み込んでいくさまである。奇をてらうこともなく(ある見方をすれば「あなたのいたみに/ちかづきたい」以外は当たり前のことを書いているともとれる)、誠実にまっすぐに物事をとらえていこうとする作者の姿勢や視点がある。またひらがなだけで構成された、祈りにも似た詩の形は、この作者の作品以外にもときおり目にするが、それでもなお、うつくしい。
「アンモナイト」森れい。
「巨大な巻貝と化した/螺旋の闇を登りつづけると/隆起した岩肌に辿りつく/鉱?に腕を差し入れて/まだ呼吸している生物の生温かさに/うっとりと昂揚する」
一部分に「鉱?」という文字化けのような怪しい部分もあるが(活字はいつまでも残るから恐ろしい)、子どものころ、化石にロマンや好奇心を寄せていたことを思い返せた。少年期の、たとえば学校の理科実験室や資料室の薄暗さにこもるような懐かしい匂い。あるいは巨大な水槽のある博物館にでもいるような。さらに自分自身がアンモナイトの泳ぐ海に潜っているような。
 ほかに「『絶壁』の思想―佐川英三の死生観を読む」石原武の論考に、厳しく生と死をみつめ詩作をしていた詩人の姿を視た。

「交野が原」六七号(編集発行・金堀則夫)
「市場にて」瀬崎祐。
市場の片隅で、売られている様々な品。それは「異様に手足の長いあやつり人形」「反りの入った長い包丁」「極彩色に塗られた仮面」など。そして、「皮を剥がれ 血抜きをされた獣の肉」。
獣の肉を買い求めると、女主人はそれを切り取っていく、と、自分(話者・客)の肉も欠けて血がにじむ。
次の連で「味付けを誤ると正しい供養は出来ないからね」と女主人に言われる。
「言葉を失うということは こんなにも見ることや嗅ぐことに耐えることだったのか/私は獣の肉をうけとり それから 傍らに棄てられていた獣の皮を頭からかぶる」
 異様な、不可思議な、幻想とも寓話ともとれる作品から、すえた血肉の臭いがしてくるようだった。
「初陣」渡辺めぐみ。
兵士にとって、それは初陣だったのだろうか、それとも転生して「地虫」として初陣になるのだろうか。
倒れた兵士は「地虫」として生きることを強いられる・あるいは死んだ兵士は「地虫」として新たな生を獲得・もしくは強いられる。
「声は続き/弾痕に託された怒りのまま/兵士は夜の眠りに落ちた/地虫として念を残して//かくして地虫第七万八千二百三十一号の誕生である/当然のように夜が明けた」
 これもまた不可思議、またいくらか不条理感のある作品であった。生者と死者、地上と冥界の寓話性。
 この誌は、詩作品のほかにも書評・論考や小・中・高校生の詩賞として「子どもの詩広場」などがある。


「プリズム」六号(発行・プリズムの会 代田勉)
 シンプルな白い表紙の薄い誌、「詩と評論」とある。
「銀の絹糸」石川厚志。
各連最終行に「……御座いません」とそれまでの行の文脈の否定形となっている。最終連のみ「……御座います」になる。ご丁寧な語り口。こういう口調はたいがい相手(作品の中の)に対する何かしら(恐れや誤魔化し・隠匿や茶化しほか)であったりする。
「御潰れになられましたのは/仔猫なので御座いまして/古びた女工なのでは御座いません」
 出前のオートバイはねられあるいは潰れたのは「仔猫」なのか「古びた女工」なのか。話者の男は、はねられた「女工」のことや、潰れた「仔猫」の細かな状況などを必死で話している。おそらくだれか(警官かもしれないし)に問われているのだろう。
「タイヤの溝から浮き上がりましたる一本の銀の絹糸か/ゆらりゆらりと揺れていたからなので御座います」
 この怪しげ話者は弁明する。本当のところはわからない。なにかの講談を聞いているような、この作品にはおもしろさがある。

「空想」三号(発行・詩誌空想)
 手にとると文庫本ぐらいの小さな本。表紙の画は、裸の胴体の像。
「拝啓、君は元気ですか」たけだたもつ。
 平明な言葉。うっかりすると、ごくふつうの街・町の光景から始まる、人生を旅にたとえる話のようだが、そうではない巧みさと着目を感じる。
出だしの「まだ夜の明けないころ/街は少し壊れた」
 でなにかが起こったことを予感させる。
「何も知らない象の親子が/道の横断歩道のないところを/ゆっくり渡っている」
 など定型(ありがち・ワンパターンとも)の意味やイメージを脱臼あるいは、ずらしていく。
後半部分をそのまま引用すると。
「あと数時間もすれば
 街にひとつしかない駅から
 朝一番の鈍行列車が発車する
 いくつかの列車を乗り継ぎ
 乗り継いでいるうちに
 人はいつか死んでしまう
拝啓
 覚えた言葉は
すべて捨ててしまって構わない」
の締めの連。なんとも、ひとの一生のあり方と、言葉についての諦観を感じさせてしまう。「拝啓」以降の三行は、唐突感もある、とでもいえばよいのか。
古月。
現代詩というジャンルではないかもしれないが、
「夢でみた女を殺す夢を見る」
「如何しても女が写るレントゲン」
「冷蔵庫おんなをふたり呑んでいる」
「食肉加工工場のはずがない」
「人形に宿れば鬼も可愛いかろ」
など、いくつもの凄みを秘めた五七五調の言葉たち。


「月暈」三号
 ブルー(寒色)系の表紙、簡素で薄い誌。若手・新人数名によるものらしい。
「狐女子高生」文月悠光。
「この学校ができる前はね
ここで狐を育てたんだって。
そう告げて、
振り向いたあの子の唇は、とても青い
狐火だったね 覚えてる。

(狐女子高生、養狐場で九尾を振り回す。
(狐女子高生、スカートを折る。
(短きゃなお良い至上主義。」

 そこここにほのかにエロス性もあり、怖さもあり、ユーモアもある。この詩自体が、読者を心地よい化かしに導いてくれるかもしれない。
「青い口紅 倒れたほうへ
いらんかね いらんかね
油揚げを売り歩く放課後。」
ほかに大谷良太、望月遊馬の散文詩など。

「詩区」一二五号(連絡先・池澤秀和)。
 コピー用紙にプリントされたものをホチキスでとめた誌。各執筆者のワープロの書体・文字の大きさもさまざまで、手書きのものもある。縦書きの作品に混じって横書きのものもあり、各人それぞれ持ち寄った原稿を綴じたもののようにも思える。
「助けて」小川哲史。
 六歳の女の子が、カンボジアなのだろう、部屋で買春かなにかをさせられている話。話者はその女の子。詩としていいかどうか、たとえば「わたしは六歳の女の子」という出だしにあるように、説明的な部分は疑問だが。状況や語りの切実さはあるかと思う。実際にありそうな話でもあるが、幼すぎるような。現代の貧困層、その底辺に生きるのがやっと。それでもなお、愛情を求めてやまない子どもの気持ちを詩情としている。
「母さんひとり/どうしているのでしょう/会いたい/会いたい/母さんに//わたしを売った父さんだけど/父さんに会いたい/どこで/どうしているのかしら」

自分の編集発行の誌でもあり、一一月という、評者交代の端境あたりに発行されたので、扱っていいかどうか微妙ではあるが。
「狼+」一七号。作品(文月悠光、伊藤浩子、加藤思何理、望月ゆき、ダーザイン、コントラ、光冨いくや他)、イベント記事(野村喜和夫+三角みづ紀トークショー、野木京子朗読会)、文月悠光へのメールインタビューなど充実しているとは思う。自分の編集発行の誌なので作品については触れない。

 また最近話題の誌「TOLTA」四号(発行・TOLTA)。毎回違う趣向を凝らしての誌の形。今回は四角いフォルムに、段ボールの素材に似た厚紙による表紙。特集として「十四歳のための現代詩」。見たところ、「現代詩手帖」で活躍している若手・中堅たちを主な執筆陣としている。
 ここではベテランの、
「青い腫れ物」北川透。
「十四歳、ぼくはぼくが嫌いだった。
村の男の子たちが誇らかにするように、
青大将を手掴みしたり、
首に巻いたりできなかった。」
十四歳というテーマに合わせた作品なのだろう。思春期にありがちな、自意識と自己嫌悪と罪悪感(このあとの連で、話者が妄想の中で少女を犯したことの告白)といえばいいのだろうか。
「十四歳、ぼくはぼくが死ぬほど嫌だった。
ときどき、青い腫れ物にさわるように、
ぼくの指はぼくに触れた。」
話はすこしそれるが、わたしも自分で自分が嫌いだった。十代から三十代くらいまで。四十代になり、自分のことをほんとうに、そのまま好きになってくれる人間は自分以外にはいないと悟った。
この誌は、「トルタかるた」として絵を配置したり、巻末に「十四歳年表」を付けたりして遊び心もある。手にとって楽しい造りとコンセプト、アートと詩の雑誌としては、大変優れている。インタビューとして小笠原鳥類、佐々木敦など、また各人のエッセイが興味深い。

 さらに「稀人舎通信SPECIAL」4号(発行・稀人舎 小林裕)。詩はないが、エッセイや対談やマンガやイラストや小説等。特集は「ケータイ小説」のことを考えてみようか」。ケイタイ小説について、語っていく。メールの往復書簡で、川口晴美と小宮山裕は、ケイタイ小説の主人公には精神性がない、といっているようだ。じつはわたしはケータイ小説を読めなかったりする。



inserted by FC2 system