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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年4月号
「その詩に伝わるものはあるか、ないか」

詩誌評を始めたい。前回は「詩のおもしろさ」についてすこし触れたかと思う。わたしは「おもしろい」ものを選びたいと。「おもしろい」とは「良い」「美しい」「感動する」「興味深い」などの意味合いになる。
今回は「メッセージ性」ついて。詩はメッセージではない(目的)、伝達手段ではない、とそのようなことがわたしの生まれた一九六〇~七〇年代には言われていた。よく引き合いに出されるのは、入沢康夫氏の名前や言葉だろうか。それに対し、近頃わたしが耳にするのは、いやメッセージも必要なのだ、そうでないと、すくなくても一般読者には受け入れられない、読んでもらえない。つまりは現代詩が、コアな読者以外には読まれていない理由である、というもの。読者は十人でよいのか、百万人に読まれるべきなのでは、というものなど。多少、言葉や定義や意味合いにニュアンスの違いや混在はあるかもしれないが、ざっとそんな感じだろうか。
詩誌評の欄では語り切れないが、わたしの見方を言うと、志向性の問題で、どちらもあってよいということになる。書いていることがはっきりとはわからなくても、あるいは内容があまり感じなくても、美しかったり、おもしろかったり、新しかったりすれば、それもよい。たとえば意味やイメージや規範を壊す、ずらす。何も語ることがないということを語る。表層の遊びやナンセンス。視覚詩やアクロバティックな作風もまた作品によってはおもしろい。
また意味やイメージがはっきり伝わり、内容のあるものもよい。ひとの生きる姿、背中、手、表情。そして逝ったものたちへの献花。祈り。さりげなさのなかの、深さ。人生や社会に対する問いかけ・怒り・嘆き、歴史や思想に関する記述や考察などいくらでもある。言うまでもないが、内容と形式がありきたり(平凡)なものは、残念ながら、印象にも評にも残らないかもしれない。
わたし自身はメッセージを伝えることを第一に詩を書いたことはないが、読み手が何かを受け取ったり、解釈したりすることはあるだろう。
前置きが長くなったが、そういう見地で詩誌評をしていきたい。順不同、敬称略で。

「左庭(さてい)」十五号(編集/発行・山口賀代子)。
山口賀代子「絵図」。
「長い砂洲のかなめにある寺の地獄絵」を視る話者は、
「この世で悪さをするとほらあんなふうに
地獄におちるのよと諭す祖母の手をしっ
かり握り
じりじりと後ずさりしながらのぞき見る
明日も明後日もおとなの死んだのちのな
がい時間も
おなじ
血の池地獄も 針山地獄も餓鬼地獄もい
つかくるかもしれない
はてしなくつづく怖い夢のようなもの」という、子どものころのリアルな地獄絵の恐しさを語る。やがて大人になり、「知りたいことも 知りたくもないこともみてしまった眼に/地獄絵は情報の一部に」なってしまう。
そしてすっかり歳をとってしまった自分は「死んだら土になりたい」と思う。その枯れていくさま、諦めていくさま。「死者からの返事はもどってこない」というラストはまるで、読み手も、もうろうとした闇に包まれてしまうかのようである。
山口の詩「サーカス」の「遅くまで遊んでいると子捕りにさらわれサーカスに売りとばされる」といううわさを怖がる話や、太宰治に関するエッセイ「ほんとうは好きなくせに」など、興味深く読んだ。
「なぜ嫌いなのかと問われたら、弱さを売り物にするポーズ、甘えが許されるという前提でまた甘えるという姿勢が好きになれないのかもしれない」と語る。
すでに有名になっていた太宰に「あなたのことが嫌いです」と若い三島由紀夫が告げたあとに、タイトルにある言葉をもらした、有名なエピソードにも絡めている。

「餐」三二号(上野菊江個人誌)。
「シマウマ」の前半は生態系について語り、後半部分は次のように展開する。
「オレはシマウマだけど
どうも役割が気に入らぬ
ライオンになろう

あしたからライオンになって
ほかのヤツを食うことにしよう
象の足でも齧ってやろう」
と引用した後半は自らの役割を変えようと決意している。
寓話性があり、他者から決められた役割をこなすことに忠実な日本人などが、職場・環境での配置転換・転職を願う、という立場に置き換えることもできる。もちろん、文章通りに、シマウマが(あるいはライオンに変身して)、象の足にとびつくさまを想像するのも楽しくてよい。この作品は平易な言葉で、ユーモアと毒もある。いまわたしたちに必要な詩の精神かもしれない。
横長の小冊子、淡いブルーの表紙に「餐」のタイトル、その横に小さく連なる「餐」の文字。シンプルでしゃれている。

「索通信」8号(発行・坂井信夫)
坂井信夫「タダイの末裔―8」。
「詩人Kにとって、年金生活者となった三五歳のニーチェは羨ましかったにちがいない」で始まる。エッセイのような散文詩だが、この虚無感というか、無気力感の「詩人K」は、わたしの姿に一部重なりもし、あるいは尾形亀之助のイニシャルかなとも思ってしまう。だれでもよいか、だれでもないのかもしれないが。「書く」ということ、「働けない」ということ、それから「酒」。
ほかに坂井の「島村洋二郎の痕跡・補稿」も印象に残った。芸術家・島村についての連載の補足で、その姿が断片的にだが、かいま見ることができた。

「竜骨」七十五号(発行・竜骨の会 高橋次夫・友枝力)
森清「粉末」。
「骨壺に入っているのは/骨ではない/粉だ」という冒頭。骨は粉になり計量化され、骨壺にはバーコードが貼られる。そこに情も温もりもなく。
そして、
「彼の部屋は消され
持ち物は下着まで剥ぎ取られ
その履歴は酸化して飛び散った
そこに 空はない
錆付いた風景が
あるだけだ」
生きていた痕跡・部屋もなくなり、あるのはただ乾いた風景。寒い風音がしてくるようで。その無常観と、そしてひとという存在の顛末と、空白のいいようの無さ。

「石の詩」七五号(発行・石の詩会/編集・渡辺正也)
「永遠のコドモ会」から「かげふみ」高澤静香。
子どものころの、あるいは子どもたちのかげふみのひらがな詩。
「にげまどう
あみめの かげのなか
たかく てを あげて
つながったまま
なにかが たりない
こころ」
2連構成の作品でそのうち後半の2連目を引用してみた。小品だが、手をつないでいるのだが、「なにかが たりない」にいい意味でひっかかってしまった。いろいろ考えられる。
「かげ」というものは、頼りなく、怪しげで、つねに自分のそばにいる分身であり、そして満たされずに、さびしげである。
ほかに北川朱美のエッセイ「三度のめしより(二十九)」など。嘘にまつわる話。饅頭、あんぱん、会社の上司、小林秀雄と中原中也、釣り人の自慢話などに移り変わっていくさまもまたおもしろいかもしれないが、やや事柄をつめこみすぎか。
渡辺正也の「海辺の町の七十歳」も、海沿いで印章を彫る男の話で、作品のなかに小説か映画にでてきそうな雰囲気がある。

「この場所ici」2号(発行「この場所ici」の会/編集・鈴木正樹・谷口ちかえ・三田洋)。
三田洋「哀しい時空」。
モンゴルに誘いをうけて、ムンフさんに会いにいくも会えずに帰国。
「会えないまま帰国すると/素晴らしかったでしょう?とみんなが聞く/愛しいムンフさん どうしたら会えるの?」
ついに会えずじまいなのだが、なぜか気になるひとというのもいる。会えないからなおさらなのだろう。もどかしさと残念な思いが伝わってくる。
エッセイ「カナリアの歌―北の島からの手紙」荒木元。
亡き田村隆一に向けた現代詩を憂う書簡になっている。
「しかし、「詩」は一部の選民のものではなく、ごく普通の生活感覚からでも読み味わえるものであるべきだと私は思っています。……」。また「「詩は難解なもの」であることを当然のこととして始めなければ何もはじまりません」、「詩の教室」などで詩が「家元制」「伝統芸能」化しているとも述べる。
新しい詩の表現を目指し、後退をしないはずの「現代詩」が、「伝統芸能」という保守的なものにも見えるという矛盾、皮肉さ。
現代詩について様々な考察や引用をしている。そしてこう結ぶ。
「ああ、田村隆一様。時代はゆるやかに侵食され次の地殻変動を待っているかのようです。それまでは、あなたのように深く沈潜し、「詩を書くこと」と「詩を読むこと」、そして「考えること」と「生きること」が一体となった悠然とした時を過ごしたいと思っています。」わたしも同感である。
コラム詩論「感情とは意味である―萩原朔太郎」では、「詩の根源とは「感情」である。しかし私たちは感情についての限りない考察や追及を怠ってきたのではないか。」と三田洋は語り、朔太郎にさかのぼり検証する。
現代詩の新しい表現の追及により、詩が難解になっていく傾向に対し、抒情の復権を願う声もここのところ聞く事が多くなった。いまのところわたしは詩のふたつの流れのどちらかを一方を否定する気にもなれない。両方に詩の方向性はあるし、どちらもよい詩はおもしろい。詩は多様性であり、個性である。難解か平易かで、詩の善し悪しを決めることもできない。けれども、荒木、三田の両氏の声にも耳を傾けたい。

「裳」一〇七号(発行・裳の会/編集・曽根ヨシ)。
個人的にこの誌は、シンプルかつ上品で好印象。白い表紙も手触り感がよい。
「破線」志村喜代子。
「月ごよみにミシン目を入れ
引き剥がしやすくするたくらみは
彼(か)の岸への知恵か
凍てつく十月の破線よ
―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)」
月暦(カレンダー)の破線にそって、過ぎ去った一日が切られて捨てられていく。風の日も雨の日も嵐の日も、ひとの破線という知恵によって。凍てついた十月。
「月ごよみのミシン目は剥がない
つるりと垂らしておけ
死者は 死んだ」
ラストは絶妙だと思う。

「COAL SACK」六五号(編集/発行・鈴木比佐雄)
「まんまるに まんまるに」下村和子。
二百数十ページの厚みのある詩誌。詩と評論・エッセイ等、ぎっしりと文字がつまっていて、読み応えがある。
扉の作品は、「まんまるに まんまるに」。
「八十歳を越して/やっと微笑仏に達したという/木喰上人の きびしい一生を思う」そうしながら「遊びへんろ」と称し、遍路をしていく晩年の話者。生きる苦しさ、遍路をする厳しさも笑ってユーモアにかえつつも、「まるく まるく/輝いている」のは、老いを背負い、仏に近づいていこうとする、にんげんの姿。

「操車場」三一号(発行/編集・田川紀久雄)。
「末期癌日記・十一月」田川紀久雄。
末期癌の詩人の日記。残念ながらわたしの入手した誌には落丁のページがあり、何ページ分かは不明なのだが、詩や詩人について、社会・世界・時代について、病気について書いていくさまは、闘っている詩人あるいは男の姿がある。
JR西日本の脱線事故に触れ「「他人の意見に耳を傾けない、そして独裁的な運営を行なう。」これはどこの組織でもありえる。」とし、次のように展開する。
「……小さな詩人の世界でもありえる。詩人は社会的に報われないから、権威にしがみつく傾向がある。詩人の世界はだれもがまた批判するひとがいないからそのことが罷り通る世界になっている。……」
朗読に関連してこのような一節もある。
「いま詩の朗読が盛んに行われている。それにも関わらず詩人達の心と身体に対する問いかけがほとんどなされていない。つまり詩人の生き方が問われていないということだ。……どう自分は生きていくのかという問いかけをつねに持っていないとなにもならないということだ。……」
心にとめておきたい言葉である。
日記でも、詩でも、物を書くということは、ときに目に見えないものと闘うということでもあり、後につづくものに何かを残すということでもる。それは厳しく、そして尊い。けっしてきれいごとではなく。

「しけんきゅう」一五三号(発行 しけんきゅう社)はすべて横書きの作品から作られていて、これは何かなと、印象に残った。
「世界の詩人たちの森から(上)」笹本正樹は、夕暮れの森から詩人たちの声が聞こえてくる。ホメロス、シェークスピア、ゲーテ、ヘルダーリン、ワーズワーズ、ダビデ、ディキンスン、ボードレール。童謡か童話風で、どう展開するのか続編も読みたい。世界の詩人たちの名前を出すにあたって、もうすこし突っ込んだ書き込みもほしい。

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