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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年5月号
詩は現実のみを扱うものでもない

 詩は、想像力である、といえば、当たり前すぎるかもしれない。あるいは言うことが古典的だろうか。今回おもしろいと思った詩を集めて、眺めてみると、「イマジネーション」という言葉が浮かんできた。幻想性もまた心地よい。リアルな地上の生きる様も、もちろんよいのだけれど。幻想性のなかにリアルさ、あるいはリアルさのなかに幻想性があると、それはおもしろいかもしれない。
では、今号の詩誌評を書いていきたい。
順不同、敬称略で。

「続 左岸」三三号(発行・左岸の会)
 月を思わせる金の輪の装丁デザインは、品が良い。
「舟」新井啓子。
「舟の中に積まれているのは 海を渡る鳥の風切り羽 飛び疲れた鳥は 舳先にとまり羽を繕う くちばしで整えられ すり抜けて 船首から船尾へ 重なり合って 羽は舟に落ちる」
 6連構成で、1連4行ほど。暗い夜に進む舟、列車の走る町、舟に積まれる海鳥の羽、鳥の身震い、黄金の草原……、幻想性のある作品世界は、凍えるかに肌寒く、そして静けさは、美しい。
「夜に飛び立つ鳥のあとを 舟は静かに進んでいく 大きく羽ばたく羽を追い 付き添うように進んでいく 羽に紛れて虫が光る 暗い夜を進む舟は 光の覆いを破っている」
 舟は静かにわたしたちのこころの闇のなかを進んでいくかのようでもある。

「石」新井啓子。
「月が出ると 赤い石は震えて光った 砂の中にうずくまり 石は遠い電車の音を聞いた 川下に長い鉄橋がある 線路に落ちた電車の響きが 橋桁を伝わって 川の中まで下りてくる」
 描写で事物を積み重ね、ひとつの世界を作っていく、その様は、良質な叙情性を感じる。
 夜は昼間と違い異世界のような気がしてくる。「月が出ると 赤い石は震えて光った」は幻想性もあり、エロティシズムもある。そしてひんやりとした夜の情景のさびしさ、闇の重みなども感じる。
「水が湖から押される夕暮れどき 砂の中に赤い石はなかった 流れて砕けたと誰かが言うが ぼうと流れる川の底にはいまも 小さな石が眠っている」
 ラストの連も、作品世界を締めくくるのに効果がある。 

「ひょうたん」四〇号(発行・ひょうたん倶楽部 相沢育男方)
「灰色の天空」岡島弘子。
「灰色の天空が落ちている
通学路の脇
両手でそっとはずす
まるい空」
冒頭部を引用したのだが、空はからっぽで、つかむことができないはずだが、ここでは、マンホールの蓋のように、あるいは丸い鏡のように、両手でとることができる。十代のころのうす氷の風景、その不可思議さ。それは「水の時間がとまったままのうす氷」であるわけだが。
 やがて成長し、山を自転車で登り下り、それは人生の齢でもあり、人生を下っていくときでも、
「灰色の天空のうす氷は
 まだひびわれることなく
 私の両手の中にある」。
 子どものころの、新鮮な驚き、それは記憶のなかの永遠性のようでもある。

「旅立ち」から「犬」水嶋きょうこ。
「死んだ犬が遊びに来た。たのしそうに笑って舌を出している。いつもの格子模様の座布団に座っている。」
 あり得ない事柄が、ごく普通の様をしてそこにあるという、懐かしいような、せつないような。霊なのか、夢なのか、幻なのか。
 わずか5行程の短い散文詩だが、
「その体に触ろうとするのだが、かすかな白い空気が漂うばかりで。掌は空を切り、さわれない」
 に生と死の狭間を感じてしまった。それは温かいものなのだろうか、それとも冷たいものなのだろうか。

 話はそれてしまうが、わたしの家に二十年以上飼っていた猫がいた。もう死んでしまったが、こたつに足をいれるときに、反射的に足先を確認してしまう。猫を蹴らないように。もういなくなって数年たつが、ときおり、気づくことがある。猫はいないけれども、いるのだな、と。おそらく、我が家の狭い庭先にも、その猫がくる前の夏の日に死んだ飼い犬が舌をだしながらときおり寝そべっているのだろう。
つまりは、わたしたちは知らずにしらず、死者たちに囲まれて生活をしているようだ。もしかしたら、死者たちに生かされているのかもしれない。
それは「懐かしい日だまりのような匂いがする」という作品内の詩句にもあるように、温かい気がする。
 
「モーアシビ」二〇号(編集発行・白鳥信也)
 この誌は毎号巻頭に北爪満喜の写真が掲載されている。今回は、白い雲が走る蒼い空にある、小さな月。
「月の瞳」北爪満喜。
「眠りの足りない瞼で
 月があればいいなと街角の空を見あげた」
 そう始まるこの詩作品は、品の良さを感じさせ、「真昼の月」の情景と情感を、読み手に呼び覚ましてくれる。わたしもまた、昼間や夜に、月を探して空を見上げたり、月に誘われて空を仰いだりしている。なにげない日常にある、かけがいのない一瞬に、月は輝いているのだろう。
「今日の月はあまりに淡く
 青空に消え入りそうだから
 そこにいる という証しに
 白く浮かぶ月のまわりへ
 てんてんと丸くミシン目のように
 切り取り線を入れておく」
 想像すれば、空は工作用紙のようでもあり、月という作品のために、切り取り線をひくさまは、想像するに楽しい。
 疲れたときに、その「真昼の月をのぼらせる」ために。

「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」白鳥信也。
「世界がついさっき17時47分に滅びていたとしても
 カレーをつくっている誰かと猫とこの俺は生きている」
 世界が終わっても、それは人間が死滅してもということかもしれないし、宇宙がブラックホールに呑み込まれるようにして消えてしまうことかもしれない。それでも、もしかしたら、白々とした終わった世界がそこにあり、ふだんと変わりのない生活を、果てもなくし続けているような気さえする。それは、死後(魂)の世界かもしれないし、そうでもないかもしれない。そのようなことを想像させてくれる詩だった。いつのまにか、わたしは作品を離れて、夢幻に遊ぶ癖がついてしまった。
 作品中「カレーの匂い」がしだいに薄まり、それでもなお、「生存者」がいくらかいる、世界が滅んだ日だった。
「むきだしの地面に黄色いチョウセンアサガオの花がうなだれている
 いつ見てもこれは垂れているけれど今日は特別そうだ
 世界が滅びる日にはこの花が一番似つかわしい」
 人間がいなくなった世界は美しいかもしれない、けれども、世界が滅んでも、作品中に生存者はいたようだ。
「歩行器を押す老女がくる。足はたわんだO脚でちょっとずつ進んでくる」
 それが終わりのない日常であるかどうかは別として、案外人間はしぶとくもあるのだなと、いささか笑みさえも浮かべてしまう。そのような作品だった。
「だからといって何も起きていない
 何も起きていないことこそ何か起きたことの明確な証左なのだ」と。それが何なのか、いろいろ想像してみるとおもしろい。

「etude」一一号(編集・麻生直子/発行・NHK学園新宿オープンスクール)
「三瓶山でヤマタノオロチ」麻生直子。
 
「ヤマタノオロチは
 神社の裏の杉林の奥に棲んでいる
 おまえが悪さをしようものなら
 すぐさまヤマタノオロチにさらわれて
 呑み込まれてしまうのだよ」
 そう「おおばあさん」は子どもらに語る。詩は物語るものであってよく、田舎の旧き良き次代を思い返してしまう(という幻想を抱いてしまう)。
 そういえば、幼いわたしも祖母から昔話を聞かされたことがある、ということは、記憶にはないけれど。きっとそれは現代の核家族では、TV番組の「昔話」が代わってくれたのだろう。わたしは幼いころから、鍵っ子だった。身近に誰もいなかった。
 詩の後半は活劇のような、活躍の場面があって楽しい。
「叢雲のヤマタノオロチの正体は凛々しくも
 マチオコシの神楽舞いを真摯に熱演する子どもたち
 無尽蔵のエネルギーをひめて
 国産みの新神話の太鼓も笛も鉦も響きわたる」
 祭りの舞の熱気がこちらまで伝わってくる。

「潮流詩派」二二〇号
「夕映」皆川秀紀。
 誌のなかの「皆川秀紀小詩集」から。
「Mother Come Falling
神聖なる母よ 僕は死ぬのだろうか
強さが必ずしも優(やさ)しさとは限らない 
他者を愛そうとする意志 それは何か?」
しんと静まりかえった地上の空白のなか。
光のような思いが降り注ぐような、あるいは祈りのような思いが言葉となって立ち上がってくるような、そんなシンプルだけれども、惹かれる詩行があった。

「る」二号(弓田弓子個人誌)
「消しゴム」弓田弓子。
「空き箱に集められた
 消しゴムの中に
 オカッパ頭の少女がいる
 気がむくと
 髪をばらばらにして
 あかい唇から
 ははははと
 声を出している」
 その少女が何であるのかはわからない。消しゴムなのかもしれないし、消しゴムの妖精なのかもしれないし、消しゴムたちのなかにまぎれこんだただの小さな少女なのかもしれない。
 年々顔は汚れ、ひとと会うと「はははは」と笑う。壊れかけているのか、それともほんとうにもう笑うしかないのか。それはわたしたち一人ひとりの姿でもあるかのようでもある。無残で滑稽な自分。
「少女は
 顔を消そうと老いた身を
 けずる
 消すほかに
 なにであったのか
 消すほかに」
 そう、消すほかに、なにも(術や姿が)ないのかもしれない。

「新現代詩」九号(新現代詩の会)
「失敗しない笑い方」はんな。
「わたしの先にあるのは
こんなはずじゃなかった
が禁句だった未来」
おそらく自分の人生が望みと違ったものになってしまったのだろう。ため息をつくかのような、失望やどうしようもなさ、「おまけにわたし自身はかなりの方向音痴であり」(人生の方向音痴か)にその気持ちが伝わってくる。
「ひぃふぅみぃよぉ
いろはにほへとちりぬるを
あぶらかたぶら
チチンプイ!
唱えた呪文が山と積まれる」
などユーモアもある。
ただ、たとえば次のような「遊園地のメリーゴーランドより面白く」など、幼さを感じる比喩は、本来避けたほうがよいのだが。
 この作品をあげたのは、 
「失敗しない笑い方って
あるのだろうか」
に立ち止まってしまったからだった。実はわたしはそのようなことを考えたことがなかった。笑いに失敗や成功はあるのだろうか。うまく笑えた、とするのであればそれは作為的なものであったか。たとえば作り笑い、たとえば慰めるための言葉とともに添えた笑み、たとえば……。
 いろいろ自分を振り返ってみたがわたしの答えは同じだった。
「失敗しない笑い方ってあるのだろうか」
 とはいえ、せっかくなので、いちおう答えを求められてはいないだろうが、答えておこうか。
自然と浮かび上がった、温かい気持ちの笑みには、失敗はすくないかもしれません、と。
わたしは自分の笑った顔が嫌いだったけどね。

今回はこれでおしまい。毎回脱線話をしているかもしれないが、想像力(誤読を恐れずに)で詩を読み遊ぶことは、愉しい。これだから詩はやめられない。今回もいい詩をいくつも読んだ。さて、今夜はこれから詩でも書こうか(笑い)。

ちなみに「これから(帰って)詩でも書こうか」はある詩人の言葉らしいが、わたしの職場でも十数年前に冗談で言われていた。
またたとえば、仕事や人間関係などに疲れたときには、とっとと眠るか、詩を書くとよいものが書けそう気がする。

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