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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年6月号
評とは客観的に、主観を語るものかもしれない

 詩誌評を始めたい。今回の詩誌評のタイトルは、評は自分なりの感じ方をひとにも説明できるようにしてみる、という意味合い。それは純粋に百パーセントの客観も主観もないということかもしれない。ある程度のせめぎあいの上に成立している。また評により、評者は自分自身の物の見方や考え方や感じ方や捉え方などを示してしまう。

「二兎」一号(編集発行・水野るり子)。
「穴」坂多瑩子。
「大根の葉っぱが
穴だらけになって
 穴の上には
 おんぶバッタが
 わんさといて
 穴によくまあ落ちないでと
 感心して
 穴をのぞいていると」
 そこには長い廊下と教室があって、石の階段を下りると、子どもたちが通りすぎて……、という展開の詩。
 平明な語り口で、物語をつむいでいく、それは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」からインスパイア(霊感)されたものだろう。オマージュ(賛辞・尊敬)もあるのだろう。この誌の表紙には「芝居小屋のアリス」という副題のようなものがついている。今回の特集か、あるいはこの誌自体が、「アリス」あるいは「兎の穴」がテーマなのか、いずれにせよ、空想の世界に楽しめる誌になっている。
また「不思議な国のアリス」の作者のルイス・キャロル(数学者・童話作家)の人物像の一端は、坂多のエッセイ「キャロルの写真と手紙」でうかがえる。
わたしもこのエッセイで触れられているルイス・キャロルの書簡集『少女への手紙』は二十代のころに手にしたことがある。つまりは少女へのたくさんの手紙と、少女の写真が掲載されていた、と記憶している。キャロルは、興味の対象に偏愛があるかもしれない。そういったものも、文学なり芸術なりを生み出すこともあるのだろう。
この誌の数名の同人も同様のテーマの作品を書き、またカラーの兎のポストカード付きとあり、とてもおもしろいものに仕上がっている。

「スーハ!」六号(発行・よこしおんクラブ 発行人・野木京子)。
 野木京子「焼け河原Ⅱ」。

「流れが止まり 光は腐り始めた
 捩れた濁音の滴は 境界を落ちた

 わたしは鈍いのです そして変形した奇妙な生を生き延びた

 くりこ、くりこ……
 (そんな名前の子はいないよ)」

 十数行の短い詩の、冒頭部分を引用した。大きな作品舞台の、小さな一場のようにも思える。作者の詩集『ヒムル、割れた野原』を読んで、その背景を知れば、この「焼け河原」がどこにあたるのかは推し量ることもできる。まるで生きているものも、死んでいったものも、同じ時空に重なり、死者の声や息遣いさえ聞こえるかのようで。
「死んだ人たちの靴が 行き場を失って歩行を続けていた
 火がつく少し前のこと」
 というラストの2行は読み手の胸に、死んだひとの手指がかかってくるような衝撃さえある。
 ほかの書き手(陶原葵「球・戯」、八潮れん「変幻する諸対象」など)もよい作品を書いていて注目に値する。
特集は「私の街角」。新井豊美、稲川方人ほか十数名のエッセイも楽しめる。
 
「裳」一〇八号(編集・曽根ヨシ/発行・裳の会)。
「メモ」曽根ヨシ。
 現代詩というと難解であることを前提にしているものもあるが、とうぜんながらそうでないものもある。いわば平易なものは、たとえば共感とか深みとかそういったものが求められるかもしれない。
「お母さんは 夕べ遅かったので
 眠ります
 紅茶をいれて
 ホテルパンをトーストして
 目玉焼きを焼いて
 冷蔵庫のレタスを食べて
 出掛けて下さい」
 朝、食卓に置かれたメモ。娘と息子と父親が順に起きだし、寝ている母を置いて、それぞれ職場や学校に向かっていく。
「眠って 眠って
午後の陽射しのなかで眠が覚める
食卓の上にメモはなく
誰も帰ってくるはずのない
夕暮には間がある」
 家庭の一情景であるが、そこには母親と家族の、互いを思いやる空気感があって、読んでいて、気持ちが澄んでいくようだ。
(言語の実験的な作品ばかりが詩ではないという良い例にもなると思う。もちろん詩の表現の革新のために、実験性のある作品もまた必要であるのだが)

「水盤」六号(編集・平野宏/発行所・「水盤」編集室)。
「漂流」森永かず子。
「胸のおくの不整脈
あれは
かすかな羽ばたき
もうずいぶん昔から
わたしのなかにも
一匹の鳥がいて
うずくまっている」
「一匹」(一羽ではないのは、動物性や物体性や身体性を強調したいのか)ここでは、「不安」とも「命」ともとれる。小鳥は手のなかにいると、かすかに震えていることもある。不整脈の音を小鳥の羽ばたきに喩えたものともとれる。
「もう老いたからか/まるで石」と時の推移とともに、「鳥」はすこしずつ変わっていったのかもしれない。
「わたしの胸の/小さな鳥よ」は、胸の奥で震えている。
思えばわたしたちはみな、自分のなかに小さな命を持っていて、それは常に鼓動しているのだろう。
ほかに平野宏「「現代詩の前線」という場所」のエッセイも興味深い。
  
「イリヤ」六号(発行人・尾崎まこと)。
「竜の落とし子」菊田守。
「生まれてからこのかた
なぜこのような姿にうまれたのか
考えている」

という誌の巻頭の三行詩(空行は詰めさせてもらった)だが、なんともユーモアとペーソス、そして哲学的とも素朴ともとれる根源的な問いである。
この誌は、上品な趣きのある装丁だった。 

「鹿」一一八号(編集人・埋田昇二/発行所・詩誌「鹿」の会)。
「太陽系第四惑星の寂寥」埋田昇二。
「寒い
大気は薄い
火星探査機から降り立ったおれは※
身を屈めて
どこまでも続く赤褐色の岩石平原の
斜行層理の地層のなかに
小さな赤い球形の丸い粒状の岩石を見つけた」
「※」印は作者注となっている。有人火星探査構想というものが、アメリカにあったらしい。実現はしなかったようだが、それを受けての作品に思われる。火星の大気は薄く、気温差は地球より大きいと思われ、宇宙服を身に着けての探査となるであろう。あまりの気温の低さは、宇宙服を着ていても、寒さと感じるらしい(作品の設定)。
 SF的な近未来の作品ともとれる。岩石の層から地表に水があった証拠をみつけ、嬉々とする話者。いわば荘厳かもしれない風景を見るうちに、話者の宇宙飛行士は、
「神も悪魔もいない大地とは/いかに 寂しいものか」と、岩だらけの地表で、感慨を持ち、そして「そのまま直立し/果てた」。
火星の荒涼の地に立ち尽くす一人の宇宙飛行士は、「果てた」とあるので枯れ木のように朽ちていったのだろうか。一人の人間の孤独と、岩だらけでほかになにもない異星の大地。空想の中に、実存性も楽しめる作品に仕上がっている。

「エウメニデスⅡ」三六号(編集発行・小島きみ子)。
「交わらない円環の白と黒を」松尾真由美。
「前触れは
 あったのだった
 健やかさとはほど遠い
 窓のものうい時空のきわ
 ざわざわと張りつくものの生体を
 見さだめもせず背きもせず
 なぜか要路のように受け入れ
 景観を狭めている」
 詩は何かはっきりとした意味や内容を、読者に伝えるものでは必ずしもない。それでも言葉を追っていくうちに、意味とイメージが沸いてくる。それがまた詩の愉しさでもある。試しに読解の工程を示す。
 この詩はおよそ誌の6ページ分をつかい、上にイメージ(白黒のネガのような絵)を、下に詩を載せている。
 はじめに絵について触れたい。冒頭部分にあたる1ページ目は、森か林の絵だった。もっとも木々の枝があり、その後ろの幹は規則正しく直立すぎるので、あるいは背後にあるのは建物とその窓なのかもしれない。前面には枝があり、葉がある。背後は林なのか、蔦に覆われた建物なのか、道なのかよくわからない。2ページ目になると、タンポポの穂のような、炸裂する光のうずまきのようなものがある。3ページ目はおそらく花だ。4ページ目は白い皿に植物と房・実。5ページ目はしおれた花。6ページ目は公共施設のような建物の内部。1ページ目の絵は、この建物の外側のようにも思える。木々と大きな窓が符号する。
 これらの絵は、それぞれの詩の部分とイメージが重なる。つまりはタイトルの「交わらない円環の白と黒を」に行き着く。
 白黒の絵:1ページ目・緑と窓の風景→2ページ目・光の渦→3ページ目・花のアップ→4ページ目・白い器にもられた実→5ページ目・しおれた花・6ページ目・窓と床と、窓の外の植物の風景。
 そして各ページは、詩の始まりと結びが、言葉やイメージにおいて連関しており、読者はその幻惑の森と建物と花のなかで、迷いつつ、遊ぶという仕組みのようにとれる。
 詩作品の部分:1ページ目・始まり「前触れは」→結び「喜劇役者は出口をもとめる」/2ページ目・始まり「出口をもとめ」→結び「種子でありたい」/3ページ目・始まり「種子はいずれ」→結びの語は直接的には関連ないが、花について語られている(背後に別のものが語られているかもしれないが)/4ページ目は白い器に枝と実について、5ページ目はしおれた花について語り、結びは「木霊をとおく/火に返す」、6ページ目で「木霊を放し」で始まり、「ささやかな葉の波間で/足許から溺れていく」と結ぶ。
木々に囲まれた建物のなかにはいると、部屋に、しおれた花や皿に盛られた実があり……、という室内を巡る様にも見える。清潔な空気、翳りのある風景、深みのある趣がある作品世界で、読みの愉しみへと誘う、迷宮のような作品と評したい。
 
「室町パッケージ」野村喜和夫。
 これは第1連に
「(fold out)
よろこべ
午后も
脳だ
さよなら固有名
水葬のように」
など短めの詩句が並んでいる。

次の連からは(fold in 1)(fold in 2)……と、1連にあった言葉をスラッシュでつないで組み替えていくという操作をする。
「(fold in 1)
よろこべ/午后も/脳だ/さよなら固有名/人には馴れまじものぢや/……(以下略)」
「(fold in 2)
よろこべ/午后も/脳だ/さよなら固有名/水葬のように/……(以下略)」

このことで、読みの際、繰り返しの詩句によりリズムやテンポが生まれる。いわば言語の実験的な試みということになるかと思う。各連すこしずつ言葉を入れ替えていく。(fold in 16)で終わり。遊びのようなものとも受け取れる。いうまでもなく詩は言葉・言語の遊びの部分も重要である。
両氏のように「現代詩手帖」で書く詩人たちの何割かは、実験的な方法で、新しい作風なり、展開なりを模索することを行い続けている。それをして現代詩の前線ということになるのだろう。ただ読者や作品により、その受け取り方や反応は様々になる。

「PO」(発行人・水口洋治 編集人・佐古祐二 編集〈POの会〉)
三田洋の「現代の抒情を衝く朔太郎の「感情論」」や津坂治男の「自律する抒情詩」や佐藤勝太「抒情の変革とは 小野十三郎「短歌的抒情の否定」から」などは興味深かった。短く言うと、三田たちは抒情詩を見直そう、二十一世紀の抒情詩の可能性を探ろうとしているようだ。

「酒乱」四号。(あんど出版)
中堅・若手による誌。今回の特集は「言葉のかたち」。連詩を試み、シンポジウムと称して、みなで語りあっている。
また郡宏暢のエッセイ「「テキスト」に耐えられない私たち―World Wide Webと「文学」」。いわゆるネット詩、ネット文学に関する考察。一部分の要約を試みると、文壇とネット文学、詩壇とネット詩の闘争は激しくなっていく。そしてネットによって「公共性の構造転換」が今後どのような方向に進むのかわからないが、「このことへの態度表明」が皆に求められるだろう、と結ぶ。




 

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