HOME > shishihyou20107

光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年7月号
「詩の読み方」に「正しさ」というものはあるか

実を言うと、これが正しいという「詩の読み方」というものがあるのかどうか、わたしは知らない。詩は必ずしも意味を伝達することを目的とはしてないので、説明はしない。説明している詩は、むしろよろしくないと見られる。従い、自分と違う詩の考え方、物を捉え方、表現の違った書き方を読むと、これは何が言いたいのかわからない、何が書いてあるのかわからないということもありえる。そして、困ったことに、作者自身、何が言いたいのかわからないということもありえる。そう作者が語ったとしても、その言葉をそのまま受け取っていいのかどうかもあやしいものだが、場合によってはそのままでしかないこともある。読み手は、作品を手探り状態で、読み進めていくことを求められるのも、また詩である。ここが散文と違うところで、詩が理解されにくい部分であるかもしれない。もっとも書き方がよろしくないということもあり得るので、さらに始末が悪いこともある。詩を理解する、受け取る、感じる、楽しむ、というのは、それぞれ独特な技量があるのかもしれない。読み手は、読み手の読解力(あるいは読み書き能力・リテラシー)でしか、作品を評することができないかもいしれない。では、順不同、敬称略で。 

「折々の」一九号(発行「折々の」の会 松尾静明)
「屋上」咲まりあ。
「ここに立とうとすると
とたんに脚が萎えてしまう
見たかった世界が見えるかもしれないのに
肺に吸い込む酸素の軽さが心地よいのに
震えが上ってくるコンクリートの地面から」
屋上から「見えなかったものを見ようとして」立ち尽くす。
わたしたちは、まだ大人ではなかった頃、見たい光景がたくさんあったかもしれない。見たかった世界があったかもしれない。歳を取って、だんだん大人になっていくに従い、常識に縛られ、ひとの目に許される範囲で落ち着いていく。それを破ると、仲間はずれにされたり、仕事をほされたり、非難されたり、生きていけなくなったりする恐れがあるから。
けれども、わたしたちはそれでも「見たい」という欲求がある。それは新しい世界や自己を発見したいがためのような。
「萎えた脚の生白い太さよ
 どんなところを歩いていたのか今日まで
 どんなふうに昇ってきたのかここまで
 空っぽになるほどのそれほどの息をついやしたのか」
 話者は現在の、現実の自分を内省する。「なにを見たかったのか」と。
 そしてラストの連は、となりのビルのカラスを描写して締めくくっている。それは、この詩に客体化あるいは客観視という、視点による立体的な効果を生み出している。

「朝食」竹内章訓。
「数人の子供達が
 銀製のスプーンで
 皿のポタージュスープをすすっている
 静かな教会の食堂に
 スプーンと皿がかち合う音が響いている
 窓から差し込む光が
 その響きを照らしている」
 という1連でわかるようの、教会での静かな朝食の一風景から始まる。清潔な空気感はとても好ましい。そのスプーンと皿がかち合う音は、「少年が昼下がりに/親友といっしょに/校舎裏につくった秘密基地の小さな入り口に/入ろうとして/頭と頭をぶつけてしまったような」「幸福な痛み」であると喩える。そしてまた、
「目の前の幼い少女でさえ
 手に余るスプーンをにぎりしめて
 自らの小さな痛みを
 響かせている」
 という連にわたしはとてもこころ魅かれてしまった。まさにこの場面の、響きあう小さな音だけを題材にした秀作である。

「ガーネット」六〇号(編集発行・高階杞一)
「段鳩」廿楽順治。
「でこぼこになって鳴ってみたがもうお 
そい 
のどのあるひとは 
ないひとを 
たいせつにしてください」 
下ぞろえで、上記のような詩句が並んでいく。平易な言葉だが、読みをするのには、一筋縄でもいかないかもしれない。読みの可能性(解釈の一つとしての試み)をもってそれに当たる。たとえば、こう読んでみる。「段鳩」というものはよくわからないので、まず「鳩」と解する。「鳩」は「ひと」の隠喩かもしれない。「のど」は発声器官。全文を引用し、詳細な読解を試みると、ほかの詩が紹介・評することができないので省くが、中ほどで「のどがないひとはかわいそう/鳩であることをなぜかわすれてしまっていた」とある。「ひと」と「鳩」は同義か、近接であることがわかる。
「            おーい と 
まだ生きていることをしらせるほかない 
鳩 
でしかないおれを 
あきらめてのど仏のように植えてくれ 
この世にゃもう 
そんなにおおきな声などいらないし」
「大きな声」は「強い主張」と置き換えると意味がわかりやすい。思想・信条・主義・主張を声高に発する時代は、日本では過去のものとなりつつあり、そのような人物はいまでは少数派となってしまう。むしろそのことによって、その少数派(「のどのあるひと」)は多数の無口で従順に見えるひとたち(「ないひと」)を従えることができそうでもある。そのことに感謝してもよいだろう(「のどのあるひとは/ないひとを/たいせつにしてください」)、とも詩の内容を解釈することもできる。諧謔、韜晦のある書き手かもしれないとも思う。
 ほかに廿楽の「鳥のよしだ」も興味をもった作品だった。「論考「現代詩この20年の意義」」として、野村喜和夫、阿部嘉昭らのエッセイも一読の価値がある。

「ヒーメロス」一三号(発行・天使舎 小林稔)
「脾肉之嘆」小林稔。
「遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。昔日私は一頭のライオンを引きつれ砂漠を旅した。」
 三章構成あるいは三部構成の散文詩。荒野にライオンを引き連れ旅をする男の話になっている。旅に出て、祖国の父を失うも、帰らず、砂漠にて一頭のライオンに出会うエピソードが描かれている。
旅にでた理由を「祖父に背き母に背き姉に背き父に叛いたのは一途に真の生を追い求めてのことであった。」と語る。
「私に撒かれた種子たちが場(コラール)を与えし花ひらくために、記さねばならぬ。記さねばならぬ、衰退の傾斜を私の腑が転がり終えるまでに。」
 これは自らに律した使命感に思える。男とライオンの物語であり、同時に物書きである作者の志でもある。
 他に「自己への配慮と詩人像(五)」では、小林はギリシア哲学を論じ、構造主義やポストモダンを超える思想が求められている、とし、「これまでの西欧理性ではなく、古代ギリシア人の考えたロゴスのほんとうの意味を私は考察していきたいと思う。」と結ぶ。

「ろれっしえんど」七九号(編集発行 高橋絹代)
「飛ぶ夢を見なくなって」わしすえいこ。
「飛ぶ夢をみなくなったのはいつ頃からだろう」で始まる作品。子どものころは、空を飛ぶ夢をみていたのかもしれない。大人になると、常識を身につけることによって、重石をつけてしまい、夢で空すら飛べなくなる(ひともいる)のかもしれない。
 作品中詩のほとんどは空を飛ぶ場面であり、夢の臨場感があって、共感する。初めと終わりの詩句だけが、飛べないことについて書かれていて、せつなくもあり、さびしくもある。空虚感さえある。
「今はもう飛ぶ夢は見ない」と。
 
「アフンルパル通信」九号(編集発行・書肆吉成 吉成秀夫)
 細長い誌。表紙はベッドに横たわり、カメラ目線の男性のヌード。
「連載詩・私たち、密生する。 第四回」文月悠光。
「 私たち、密生する。

 息を繋ぐ。
 膝の谷間に顔をうずめ、
 〝わたし〟の吐いた息を
 口の中で溶かしだす。
 私たち、密生する。
 閉じたまぶたの裏側から
 私を見透かす〝わたし〟の目。」
 冒頭の詩句を紹介した。若さとエロス性・、危うげな自意識と不思議な力強さ・生命力、他者との関係性と会話、雪と海と満潮の気配などの情景を、行わけ体と散文体を織り交ぜながら描いている。作品の中に、ある密度と新鮮さを感じる。これからの活躍がもっとも期待されている新鋭のひとりであろうと思う。まだ十代で各賞受賞し、少々周囲が賑わい・騒ぎすぎて、当人も大変だとは思うが。
 
「すてむ」四六号(発行・すてむの会 甲田四郎方)
「暮れの匂い」甲田四郎。
「女房も友だちもいないのか
 残されて揺れる背中の匂いは昔
 たいてい私たちのしていたものだ
 すいません、ホームレス初心者なもんで
 寒気に開け放たれた入口で
 笑ってみせて出ていった」
 これは、「私」と「女房」の私小説的(実際そうであるかはともかくとして)な話にも思える作品。壁のペンキを塗り直す時期、年の暮れ、昔の貧乏な友人を思い返しながら、ふと屋上内側の踊り場の床に眠っている男を「私」と「女房」は見つけた。ホームレスだった男は、引用部分のように「すいません」といって出て行った。「女房」はそのあと、広場に向かう「私」に言う。「どこ行くの?」と。しかしながら、それはホームレスの男にも響く声のようでもある。
「ポストだよと振り向かないまま私は言った」
 いまの時代を反映した、そして家と女房を持った男「わたし」と、それらを失った「ホームレス初心者」の悲哀と、無常観。
 いまや、だれもが、職場があろうが、持ち家があろうが、伴侶がいようが、ホームレスになる可能性がある時代である。
 だから、だれもホームレスをさげずむことなどできはしないし、自分の行く確かな先などは、ほんとうはわからない。

「橄欖」八七号(編集発行・日原正彦)
「人生の途中でりんご飴を売っている」大西美千代。
「愛のために死にたかったので 女は
人生の大半を無意味に嘆き続け
今たった一人で」
で始まる詩。「りんご飴を売る」と「売れない詩を売る」と並列して描いている。
「愛のために死にたかった
 のではなく
 愛のために生きたかったのにと
 いまさら言うわけにもいかず」
 そして、
「りんご飴を/あるいは/売れない詩を/粛々と売る」。それは、働く者の姿でもあり、詩人の姿でもある。

「詩区」一二八号(連絡先・池澤秀和)
「降りていった」田中眞由美。
 電車のシートに二人の女性が乗り込んできた。ひとりは着膨れて、汚れたピンクの袋をたくさんもってバックを肩にかけて。周りには空間があいている。あとから乗り込んできた女性は、シルクのブラウス、カシミアのスーツ、真珠のネックレスという(ややステレオタイプだが)上品な装い。
「いつの間にか眠っていたピンクのひとが
 はっと 眼をさまして
 隣のひとを 見た
 同じ年ぐらいのそのひとを じつと見ていた
 隣のひとは 真直ぐ前を見ていたが
 ふたりの距離は果てしなく開いていて」
 向かいに座っていた話者の「わたし」は、ふたりの様子を見ている。そしてピンクの袋を持ったひとは次の駅で降りていった、という作品。
 対照的な人物が隣り合うも、生き方や姿勢や視線は交わらず、それを第三者の話者が語るという構図になっている。
 そして人生とはそういう仕組みかもしれないなとも思った。電車内の、人生の、すれ違いの一瞬を捉えた作品であった。

「熱気球」九号(発行・詩の会こおりやま  安部一美)
「雪だるま」若杉縷縷。
「雪だるま今にも歩き出しそうな帽子マフラー手袋つけて」
 という一行詩。情景が浮かび、ユーモアもある。楽しい詩である。

「短詩通信」はがき篇三一号(朱鳥草)
「使者が」朱鳥草(あかみとり・そう)。
「雪野になぎ倒された
   セリ ナズナ ゴギョウ
 近づいてみると
 ぴくぴく全身を震わせているのは 兎
   ガラス玉の紅い目 にじんでいる血
         (グレン・グールドに)」
 この詩も情景がよく描かれている。雪とおそらくは兎の毛の白さと、兎の目の紅さと血の赤さの対照が鮮やか。この誌は、葉書に書かれた詩の通信となっている。

「港のひと」(発行・港のひと 里舘勇治)
エッセイと書評の誌。詩はないが、興味深く読める誌になっている。また五〇万円ほどの詩集制作を活版印刷で承るとの告知もあった。誌の名前「港のひと」は、詩の出版社の名称でもある。

inserted by FC2 system