HOME > shishihyou20108

光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年8月号
にぎわう詩誌に触れてみる。

今回は取り上げたい詩誌が多いので、前置きは省きたい。順不同、敬称略で。

岩本勇個人詩紙「おい、おい」七六号。
「なんぼ」岩本勇。
「人の世に/生まれて おまえは/なんぼ と/数に直され/私は数ではありませんよ と/抗議しても/あほぬかせ/おまえは/なんぼのもんや と」
 葉書一枚に印字された十六行の詩のうち、前半の九行引用してみた。関西弁なのだろう、話し言葉で、理不尽な世間の見方に、単刀直入に切り返すような作品。
ラストでは「あほにされて/それでも私は/なんぼのふりして/生きております」と、哀切さとタフな一面も覗かせている。

「Junction 74」(発行・草野信子方)
「ソラシド」柴田三吉。
「土の上 レンゲの花に/ちいさな身が腰かけている/空の上では 死が諸手を広げ/まばゆく瞬いている」
花と死を題材に、タイトルにあるようにドレミの音階を絡めて詩の世界を作る。
「(ドの上にはミが ソラの上にはシがあり/どれも勝手に動くことを許されない)」
 詩情と言葉遊びの展開にラストの連で、
「土に座って夜空を見上げる/はるかな高みで 詩が瞬いている/ひとり階梯を登ると/わたしを包む闇は無調だ」と、そこにはカオスと静寂のみがある。

「hotel 第2章」二四号(発行・hotelの会)
「《あついみず》」海埜今日子。
「ほのおをかけたであいだった、きょひをてがけたしじまでした。それはとてももえのこり、くものきれつをまきこむから?      ほおづえはがし、ひといきいれ、ふわふわのじょうしょうのためにもの、くるう。あいのてひとつ、まにまにつつんで。」
海埜の、少なくてもわたしが目にすることがあった作品の傾向としては、ひらがなの多用、生命・エロスの官能性ということである。この作品もそのようで、作者名を隠しても、作風から、このひとと言い当てることができる。いわば、海埜ワールドを形成している。「出生」「死生」「未生」という言葉だけ漢字をあて、あとはすべてひらがなを使った散文詩となっている。叙情性も受け取ることができた。

「眩暈原論(2)」野村喜和夫。
「Ⅰ―3
かたちは動きであり、動きはかたちである。すなわち速度。すべては捕獲を逃れ去ると知れ。

最初のゆらぎはめざめのとき。宇宙めく夜のこめかみの境界を散り散りにして、胎児めく生気の何かしらクレッシェンド。その影が董色になって、木の葉になって、霞になって、血の川の流れの絶え間ないノイズにもなって。だがやがて、眩暈地平にあっては、すべては絹、音楽も絹、乳房も絹、死ぬまでも絹。おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。」
冒頭の二連を引用した。タイトルに「眩暈原論(2)」とあるので、(1)もあるのかもしれない。連作の可能性もあるが、この作品のみで見ていく。連作の場合は、互いに関連、連結、補完しあうものであるが。
タイトルからして「眩暈(めまい)」について語るのであろうことは推測できる。「最初のゆらめぎはめざめのとき。」と二連と三連の始めに書かれている。おそらくは眩暈が突如訪れたときから、その幻惑さ加減を詩に表したものであるとも受け取れる。わたしも眩暈で数度、失神しかけたことがあるが、脳がぐらんぐらんと揺れ、体の姿勢を保つことができず、闇に星々が渦巻くような、あるいはすべてが白い光に包まれるような、その交錯さ加減があった。
そしてこの作品において「ノイズ」としていくつもの言葉や映像や思いが猥雑に浮かんでは、疾走していく。そしてそれを「原論」と名づけ、「読み解かれることのないシステム」として提示されるとも読める。
テクストを読むということは、読み手が、作者の思惑を越えて、独自に作品世界を作り変えてしまう(解釈を試みる)所作である、ので、そのように捉えた。

「交野が原」六八号(編集/発行・金堀則夫)
「イド(id)」一色真理。
「エスの町では地面に穴を掘ると、必ず水が湧き出す。けれど、誰もそこに井戸を掘ろうとする者はいない。出てくるのは赤い水ばかりだからだ。それに、一度できた傷口から流れ出す血は、けっして止まることがない。」
 散文詩の一連目を引用した。「イド」とタイトルにあるので、すぐに精神分析の世界を題材にしているとわかる。また作品の後に著者の注があるので、明らか。内容的にも、言葉が掛かっているのかもしれないが、「井戸」(象徴性が高い)や家庭や父と母などが出てくる。
作品をひとつの物語として読むと、暗い情念もある血縁関係の、どろどろとした部分をこめた、不可思議な自分語りとなっている。家族・血族の愛憎劇とも、自分の深層心理との対決ともとれる。そしてラストは、オイディプス・コンプレックス的な、告白となる。宿命すら感じ取れるかもしれない。
「その男こそ母の血を吸って生きのびた。ぼくだ。父は僕が殺した。」と。

「潮流詩派」二二一号(編集発行人・村田正夫・麻生直子)
「風祀り」麻生直子。

 夜、岬ちかくのホテルに泊まった話者、浴槽に身を沈めていると、
「わたしの目の前を
からだを洗い終えた母が
〈先に行くね〉
 と
かるく手をふって
脱衣室の自動ドアに霞んでいった」
 その母も亡くなり、思い返すのは、
「あの丘の上に
 遺骨を埋葬したのちは
 清らかな風霊をひだり肩にのせ
 血の果てまでも行けると思った
 〈夢のようだねぇ〉
 旅先ではいつも嬉しそうにまわりを眺め
 感嘆の声をあげる母だった」
ひとは亡くなっても、大切に思う残されたひとの記憶のなかで、いつまでも息づいている、そのことを再認識させられる作品であった。
ほかに皆川秀紀の「風」は、沈鬱さから前向きになった明るさと祈りが、熊谷直樹小詩集には、率直な思いとユーモアさが、印象に残った。

「プリズム」七号(発行・プリズムの会 代田勉)
石川厚志「しり突つき」。
「どうそうかいに 行ったんだ
どうそうせいが 逝ったんだ
からだの病気で 逝ったんだ
むかしから 弱かったんだ
だからみんなに 突つかれたんだ
せんせい方にも 突つかれたんだ」
冒頭部分から、一文の後半に繰り返しの効果を狙い、ときおり文字を掛け合いながら、韻を踏みながら、最後までリズムよく畳み掛けていく。学校でのいじめ、養鶏場での鶏の突つかれ。活字にするとくどくなる可能性もある、繰り返しの作業だが、この場合は、文字を入れ替えたりして、効果はあると思う。ラストはこう結ぶ。
「校ていに悲めいが 突き抜けて逝ったんだ
お空の突きも はんぶんに欠けてたんだ
おしりの辺りに 寒気がしてきたんだ
気が突くと 僕のおしりも亡くなってたんだ」
ユーモアと悲哀の詩であった。
ほかに天野英「たわむ鏡」での、ルイス・キャロルのアリス考察などもあった。

「宇宙詩人」一二号(発行・宇宙詩人社 鈴木孝)
「入り江の眠り」(キム・ソンウ(金宣佑))。
「生理痛の夜には
じりじりと部屋の床に肌をくっ付けていたい
ベッドから下りて近くにもっと、
サザエのにおいのする枕に鼻を埋めていたい

青いサケのように……」
生理の夜に、海や魚介類のイメージや感覚を重ね、
「釈迦もレーニンもゴッホの芋を食べる夫人たちも
体の痛い日にはこうして革命もしばらく
鎌も筆もしばらくおいて、一日中部屋の床と遊んだだろう
生娘一人が熱くなり波としっかり肌を交わしても
見苦しくないようにしたい」
と結ぶあたりはおもしろい。七〇年代から八〇年代に日本でも流行った女性詩をすこし思い返しながら読んでいた。
韓国現代詩の特集なのであろうか、ペ・ハンボンら数名の詩人たちの作品と紹介が写真付きで掲載。ハン・ソンレ(韓成禮)訳。この誌では、日本の詩人たちの肖像写真や集合写真も多数掲載されている。

「ガニメデ」四八号(発行・銅林社)
三〇〇ページ以上の分厚い誌で、目を引いたのは、片野晃司の詩壇時評「「ネット詩」の終焉はいつだったか」、久保寺亨「白状/断片Ⅺ」、中井ひさ子「小豆 他一篇」、海埜今日子「《寝待月、ひとりの箱が船乗りによって》」などだが、今回は小笠原の作品をあげてみようかと思う。
「私は犬の写真を見ながら書いている」小笠原鳥類。
「テーブルの上はタヌキの上だろうか、マジック(奇術)に隠れている布
なので、白鳥は鳩に隠れていて、湖の後ろなんだな。テレビを見ていました。
テレビを見ている人は低いテーブルに座っているのだし、いくつかの
ピアノは並んでいる歯で、サメが、やって来ていた。サメが出て来る」
 タイトル通り、これは作者の執筆中の実況中継のようなものなのかもしれない。作者の「私」は犬の写真や、テーブルの上の物やテレビなどを見て、目に映るもの、心に浮かぶものを原稿用紙かパソコンのワープロソフトにでも「転写」していく。そして作者に興味がとてもある海や魚類の事物へと移っていくが、ノイズ性とイメージの連環が続いていく。書くという行為と、心に浮かぶ記憶やイメージ、目に映るもの、周囲にあるものなどを記載していくという手法であるかもしれない、と踏む。
 また編集後記の武田の痛快な発言は、思わず笑ってしまうこともある。
 後記に記された事柄で、わたしも運営委員である「44プロジェクト」に関して。
「「44プロジェクト」は同人詩誌及び詩のサイトの活性化と、同人詩誌及び流通手段がない詩書の委託販売を目的とした企画です。」(サイトのトップページより抜粋)
そのプロジェクトの主宰者に、何やら書いているようだが、その表現はいかがなものか、と苦笑。

「COAL SACK」六六号(発行・鈴木比佐雄)
「左手と右手」木村淳子。
「右手はうぬぼれていた

 ぶきっちょな左手、
あんたは何もできないんだ。
 はさみも使えないし、
鉛筆もだめだし、
私がいなければ何もできない。」
 素直でわかりやすい作風。大切なことを書いている。これをして「ひとは自分ひとりだけでは生きられないんだよ」と言ってしまえば、それでお仕舞いかもしれないが、そのことを作品としてきちんと、上手く(こういう風に感想を言われるのを嫌うひともいるが)描くこともまた、詩にとっては善いことに思う。いたわりの気持ちもある。詩をふだん読まないひとにも、受け取ってもらえる作品だと思う。

「火の鳥」二三号(発行・火の鳥社)
「『戦中戦後 詩的時代の証言』から始まるフリートーキング」長谷川龍生、三浦雅士、平林敏彦。
平林の『戦中戦後 詩的時代の証言』(思潮社)という自伝的評論を契機に、「荒地」という戦後詩の代表的な詩誌、その時代の田村隆一らの詩人・作家のエピソードの回想などを、三氏で行ったもの。横浜詩人会主催イベントの一つとして企画され、実はわたし自身記録係り、及び記録CD編集(横浜詩人会発行)に携わっていたという鼎談でもあった。その模様が掲載されている。

「詩遊」二号(発行・詩遊会出版)
特集はポエトリーリーディングについて。森川雅美、窪ワタル、稀月真皓らによる論考や、インタビューやリーデング・イベント記事など。色々な立場から朗読に関して、発言がある。実はわたしも珍しく数分程度、このオープンマイクに参加していた。作品は三角みづ紀、今唯ケンタロウら数名。

「ココア共和国」二号(発行・株式会社あきは書館)
「捨て猫」響まみ。
 招待作品の響まみの「捨て猫」。
「ずぶぬれで震えてる
捨てられた仔猫みたいな
アタシを」
で始まるポエム系(という印象)の作品。「仔猫みたいなアタシ」は男に拾われて、幸せ太りをしていくのだろう、そして「亭主」は帰ってこなくなり、「アタシはいったい誰なの…」と、中年の主婦のようにつぶやき、家庭のなかで「捨て猫」のようで、「アンタの帰りを/待ってる」
細長い形の誌で、カラーイラストあり、楽しめる作り。秋亜の朗読の模様がDVDとして付録になっている。リズム良く時に声を荒げ朗読し、伴奏あり、男女の舞踏あり、聴かせる、観させる内容になる。 





inserted by FC2 system