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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2010年9月号
詩の滅びと復活。

「明治になったとき、詩歌のジャンルには漢詩・和歌(短歌)・俳句・狂歌・川柳(*せんりゅう)があったが、いずれも新しい時代の精神を十分に表現しきれなかった。とくに漢詩は、西洋の知識の導入の盛んな中で衰え、江戸末期に衰えかかっていた狂歌は、高い教養を要するわりには低い評価しかされなかったために滅びた。」というのは文英堂の『日本文学史』からの抜粋。将来どこかの「文学史」において「現代詩は滅びた」という項目が加わらなければよいが。詩の再生・復活を願うし、企図していく必要もある。では順不同、敬称略で。

「現代詩手帖」六月号(思潮社)
「食卓で洟(はな)を嚔(ひ)りながら書いた詩」岡井隆。
「詩が滅んだことを知らない人が多い。」(雁)
四季派の森をさまよひ やうやく「荒地」開墾の鍬の光を遠望しつつ「櫂」が多摩川を渡るのをうらやんでゐたころ
かういふ情報は「わけがわかんない」
と思はれ おびえと共に自分の若さを信じさせた」
 詩誌の冒頭掲載の三〇〇行ほどの作品から、一部抜粋した。著名な歌人でもあり、現代詩において詩集が賞をとり、話題になっている作者である。いわゆる一般のひとが連想する「詩」ではないところが、「現代詩」である。個人的には好きな詩風ではないが、一つの実例としてとりあげた。改行体で、エッセイの一断片を思わせるものが、漢数字の章ごとに並べられ、詩歌や文学について実在する個人名や引用の発言・詩句・文章などを織り交ぜて構成されている。
 座談会「滅びからはじめること 岡井隆とゼロ年代の詩歌」では、松浦寿輝、小澤實、穂村弘、岡井隆のメンバーで行われ、このあたりの文学事情も読みとれる。

「kader0d」四号(編集人・本橋理英子/発行人・広田修)
「他人」広田修。
「私の中には時折他人が入ってくる。私が食器を洗っていたとき、気がついたら私は田淵さんだった。田淵さんは私の部屋に勝手に入ってしまったことを申し訳なく思い、靴をはいて部屋の外に出たが、そのとき田淵さんは私だった。私は再び部屋に入り食器洗いを続けた。」
 冒頭部分を引用した。解釈するに、他人が自分のなかに入ってくるということは、心霊学でいうところの憑依現象なのか、心理学でいう多重人格のことか、SFなどの人格の入れ替わり(例えば筒井康隆原作「転校生」など)や他人への変身なのか、ということもあるが。
 自分の中には他人(他者)がいるのかもしれない。その自分でも思いもよらない他人があるとき呼び起こされ、行動を起こす。不条理な出来事・非日常に、意識が混乱しそうではあるが、また日常に戻っていく。
「すると殺人者は徐々に田淵さんに変わっていき、(中略)そのとき田淵さんは私だった。私はナイフを戸棚の中にしまい、ひとまずタバコを一服ふかした」
 これをして空想や妄想といってしまうと、とたんにつまらなくなってしまう。読み手としては、純粋に、円環(始めと終りがつながる)になる異常な出来事を、詩世界の現実として楽しむことができる。
批評など散文も充実していて(こちらの印象が強い)広田のほかに、小林坩堝、田代深子ら若い世代により、新鮮な誌となっている。若手による詩と批評の誌として貴重だと思う。広田の批評「さよならパリ――高塚謙太郎とボードレール」では、二者の散文詩について比較検討している。
表紙も前号の白くシンプルなものも、今号のカラーのものもデザイン性に、また本文のレイアウトのセンスも、優れている。

「PO」一三七号(編集人・佐古祐二/発行人・水口洋治)
「韓国現代詩の今」とし、崔東鎬(*チェドンホ)ら四人の詩をプロフィール付きで紹介している。
「唇の文字」「太陽の標的」韓世情(*ハンセジョン)・詩/韓成禮(*ハンソンレ)・訳。
「唇のしわに
別れた名前を記録する時間

乱れた髪の乞食となり
私たちは髪の毛が引いて行く風の文字を解読したのだ」(「唇の文字」冒頭部)
ここではエロス性とある系譜が美しく描かれている。
「たった一つの標的のために
鳥のクチバシはその身に向かって育つ」
「私は予告されていない終りを見るため
目の見えない人の瞳を記憶する」
「私にはまだ消されていない
太陽の跡が残っている

私の目は今、黒点である」
など、「太陽の標的」ではインパクトのある詩句が屹立している。
この誌は、多くの詩作品が置かれ、百数十頁で、しっかりとした製本になっている。「詩誌寸感」などコーナーもよいかと思う。 

「ぶらんこのり」九号(編集発行・中井ひさ子、坂多瑩子)
「立ち話」坂多瑩子。
「献体を申し込んできたと
八十七歳になる一人暮らしの隣人が言った
死んだらすぐ行かなくちゃならないから」
で始まる詩で、死後すぐに密葬ですませるそうだ。平明で十一行の短い詩だが、なかなかにやりと笑わせてくれる。
「たしかに/献体は/新鮮さがいい/そうしなさい/ある朝 そうしゃべった」
 解剖台のうえの、美女は、ある種のあやしげなエロティシズムがありそうだが、老女(人)は、そちらはなさそうである。また臓器提供にもあまり適さないだろう。老体ながら解剖・研究の実験台として、すこしでも早く役立ちたいという、その隣人のある種生真面目さと、それを聞き苦笑いでも浮かべていそうな話者のやりとりには、ややブラックユーモアも感じる。
「またなの」中井ひさ子もユーモアがある。
「こんな日は
 考える人になって と
 公園のベンチに座っていたら」
 で始まる。昨日の会話で気になることがあり、なぜか目の前をラクダが通り過ぎていく。ラクダは、サラリーマンや子どもづれのヤンママ(ヤンキーママではなくヤングママの方)の比喩でもいいが、そのままラクダの方の解釈(実際には両方掛かっているのかもしれないが)がおもしろい。
「ぼくの/こぶの中にあるものなあに/帰ってきた/ラクダが聞いた」
 春の公園でベンチに座り母親が眠たげにしていたら、子どもが戻ってきたのだろう。おそらくプリント柄のTシャツに半ズボンの、子ラクダだ(評者の想像。本当は隠喩だろうけど)。
坂田、中井による薄手のページの二人誌は、毎回楽しめる。

「ひょうたん」四一号(発行所・ひょうたん倶楽部 相沢育夫方)
相沢育夫、相沢正一郎、岡島弘子、村野美優、森ミキエら良い書き手が多いが、ページ数は決して多くはない詩誌。
「キタイロンの捨て子」相沢正一郎。
キタイロンとはギリシア中央にある山脈で、ギリシア神話では、酒と酩酊の神・デュオニューソスを祀り、オイディプスが捨てられたなど逸話が多い。それらを下敷きにしたのかもしれない、三行ほどの詩。
「庭にたっていた。庭のまんなかに井戸があって、あかさびた滑車から水滴がおちている。井戸の底をのぞきこむと、……月みたいに白い老人の顔が、水にぬれながら泣いている赤ん坊の顔になる。」
 という全行を引用。よく映画(その多くは小説を原作にしているのだろう)などで、見られる一光景ではある。しかしながら、井戸(象徴性が高い)=イド(本能的性欲動・深層心理/底に別の文脈を隠す)とも、若返りの井戸=泉/変身譚(「願望」あるいは「退行」あるいは「時系列の逆行」/あるいは「老い」「死」からの「再生」)ともとれる、多様な読み(深読み)を可能とする、不思議な、幻想性のある作品。
 蛇足になるかもしれないが、ほとんど全ての文章(物語なりストーリーなり一場面なり舞台なり何なり)、過去においてすでに古今東西において書かれてしまったものである。つまり、書かれたものすべては「引用」でしかなく「オリジナリティ」など存在しない。そこから、では、どうやって作品を書いていくのかが、問われる。それが詩だけではなく文学の課題でもある。「オリジナリティ」など存在しない地点から、どうやって「オリジナリティ」を獲得するか。

 たとえば、次のような批評的に詩を書くという試みもある。
「サヨン・Ⅲ」七号(発行・さよんの会)
「ピラニア」新井高子。
「詩は行ですか、面ですか
何次元だと思いますか、あなたは
どう答えます?
こう尋ねられたら、」
という、問いかけから始まる詩。この後「荒地」(日本の戦後詩の誌名でもあり、エリオットの作品名でもある)、「北園」(戦前のモダニストの北園克衛)など固有名を出して、いろいろな角度から詩を検証・考察していくが「ピラニアか、/アマゾンの/わたしたちは」という最終行で、話者や読者をも、自己批評していく。

「山形詩人」六九号(編集・高橋英司、発行・木村迪夫)
「電柱男」高橋英司。
 筒井康隆の短編小説「佇むひと」で、犯罪者を「人柱」という木に生きながらさせる刑の話があった。ひとや犬が少しずつ柱に変えられていく。意識があり会話もでき食事もとれるのだが。小説家の主人公の妻もまた「人柱」にされている。女性だけに悪戯をされることもあり、夫を気遣うこともでき、という切ない作品を思い出す。
「電柱男が立っている
電柱ではない
男である」
 で始まる。「電柱男」は「男」であるので、どのようなひどい目にあっても力強く立っている。「文句は言わない/反抗はしない」と。しかしながら「男」は「漢」であり、
「世界との関係は持たない/しかし電柱男には/見下ろすように世界が見える」
 と達観してもいて、逞しさもある。あるいは「佇むひと」にインスパイア(感化・触発)され、それを下敷きにして独自に作り上げた作品のようにも思える。
 ちなみに、筒井作品の「人柱」はやがて人間としての意識を失い一本の木になる。

「紙子」一八号(編集人・萩原健次郎)
「娑婆」渡辺めぐみ。
「犬が闘うのをじっと見ていた
六頭が五頭に
五頭が四頭に
四頭が二頭に
二頭が〇・五頭になったとき
メダルをかけてやるつもりだった」
 ここでポイントとなるのは「〇・五頭」というあり得ない数字である。この詩を成功させているのはここの部分。これは「遊び」であり「返還訴訟に勝つ」ためであり、「課さされた偉大な使命」でもあった。
「犬になれ/犬になる/犬を生きる/言い方がいろいろあったが/要は星を一つ一つ夜空から消すことだったのかもしれない」
 そして後半にはこのように語られる。
「そしてわたしは脱走した
 それは選択ではなく必然だった
 魂と肉がそのとき離れた
 奢れる者よ制裁が待っているぞ
 わたしたちが選んだ〇・三頭のヘッドが叫んだ
 わたしは目を閉じた
(幾分でもわたしを生きてみたいのです
まだ肉が残っているなら)」
リアルに生きるということは不条理を引き受ける・受け止めることなのかもしれない。「魂と肉」とが分離し、ついに一頭を割り、〇・五頭や〇・三頭になってもなお、わたしたちは「課された使命」やわずかな望みに生きるのである。生ききりたい。

「る」三号(弓田弓子個人誌)
「結婚線がぶれている」弓田弓子。
「月の夜は
てのひらの別れ道まで
あかるみにする
ここをこう行って
ここで曲がって
しばらくゆっくりと歩いて行こう」
夜道を散歩していると「薬局の白い猫に出会うだろう」、「月の夜には/白兎が跳ねているが/この/てのひらには/白い猫がうずくまっている」と展開していく。夢想している・想像を巡らせている様がわかる。そしてタイトルにあるように「結婚線がぶれている」話になっていく。戦争で行方不明のYに触れ、ラストの行はこう記される。
「やがて/Y氏は/蛇になり/あなたのてのひらに/もぐり込むね/このてのひらは/ふくざつだ」と。平明な言葉でユーモアもあり、ユニークさもある。

「鹿」一一九号(編集人・埋田昇二)
「太陽系第五惑星 木星―ガリレオの独白―」埋田昇二。
 前回も惑星ものを取り上げたので簡単に。
「あのひとは/処刑される槍先が横腹に突き刺さる/あの瞬間には神の存在を疑ったが」で始まる。引用部では、キリストについて。その後、自らのことを話すガリレオ。地動説を語り、裁判にかけられ有罪とされたガリレオの魂は、死後四〇〇年経ち、惑星探査機「ガリレオ」に乗って、自らの説の正しさと見果てぬ真理とロマンを求め宇宙へと旅立つ。木星や四つの衛星を見て、感動し、衛星エウロパ探査へと希望を持つ。
 制限枚数が尽きたので、とりあげようと思った「裳」一〇九号は次回に回したい。




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