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光冨郁埜詩誌評

詩と思想2011年1・2月合併号
詩の言葉たちと、その箱舟。

この年間で強く印象に残った誌は、「PO」「COAL SACK」「日本未来派」「宇宙詩人」「酒乱」「裳」「索通信」「ヒメーロス」「交野が原」「kader0d」「月暈」「左庭」「スーハ!」「イリヤ」「hotel 第2章」「すぴんくす」「hotel 第2章」「ひょうたん」「ガニメデ」「モーアシビ」「ぶらんこのり」「る」「Poem ROSETTA」「Eumenides II」「トルタ」「狼+」などがあった。
例えば若手中堅の企画性を強く持った「酒乱」などは、テーマ性をもたせ討議・座談会や論考を載せていく。同じく若手で「kader0d」では批評、散文なども積極的に取り入れる。また「すぴんくす」は個性的な書き手の2人誌に一人のゲストを呼ぶ。若手で新鮮な印象の「月暈」。ベテランで「索通信」「る」など。「PO」「COAL SACK」「日本未来派」「宇宙詩人」など、会員が多い場合は、総合的な誌面作りになる。詩、エッセイ、評論、書評・誌評、読者投稿欄など。「PO」「宇宙詩人」では、現代韓国詩の特集を行う。アート系の遊び心としては「トルタ」。また、他ジャンルとのコラボの誌などもある。ネットやipadなど電子書籍の誌も登場し始める。メディアの発達に伴い、新しい誌のあり方や展開も今後出てくる。
では、最終回、いつものように順不同・敬称略で。

「虹」創刊号(編集発行人・豊岡史朗)
「やわらかな海」島田奈都子。
「起伏を/ひとの からだに起こすものは/やわらかな海の 恵み/水の底で 抱かれていた/その記憶を たどるように/あなたは/わたしの/ひんそうな からだのなかに/神秘の やすらぎをさがしていた」
海は命の源、母性、激しさと慈愛に満ちている。「やわらかな海」は包容力があり、少女の死体も受け入れて命をつなぐ。
「あらがうことを知らない/少女が 浮かんでいる/花びらであふれかえる水の中の死体/からだなど/尽きてしまおうと/魂を遺(のこ)そうと/翳(かげ)りある死を えらぶ」
広大な海はあらゆるものを包み込み、静かにときに激しい。
「ひとが/ひとと/ちいさな魚の そぶりをして/虹色の海底を夢見て/かぎりある やわらかな海を/およいで いるだけのこと」
  
「hotel 第2章」25号(発行・hotelの会)
「かたづかない」川江一二三。
「まずい開け方でした/さぞ苦しかったのでしょう/幾枚かの皿が割れ 欠片が下着にこびりつきました/大きなバッグの中には血溜まりができています/なにがあったかは理解できました」
これは「そもそもわたしは仕舞い方がわからない女です」という話者に「どろどろに溶けながら/自分から男たちは箱に入っていきました」という、ブラックユーモアに満ちた作品である。たとえば自分を愛した男たちが、それぞれダンボール箱などに、梱包されて押し込められている。実際には、こころのなかの記憶に押し込められているのだろう。
「長い長い道中を/けたたましい叫び声をあげながら/箱どもが飛び上がります/わたしはすっかり楽しくなってしまい/げらげらと嗤い続けています/星が墜ちます」
思い出の男の数(叫び声・悲鳴)は、女の勲章の数かもしれないが、男から見ると、ちょいと痛い詩でもあった。

「ひょうたん」42号(発行・ひょうたん倶楽部)
「止まり木」村野美優。
「その頃、わたしはよくバーのカウンターに座ってひとりでお酒を飲んでいました。カウンターのことを止まり木ともいいますね。この止まり木に止まりに来るのは酒飲みという鳥たちです。」
 バーでお酒を飲む女性らが、鳥みたいに騒がしい様子を描いている。モノカキの女性に、自分はある指摘をされて、
「さすがはモノカキ、「鳥籠を抱く鳥」だなんて・・・しかしなぜ見ず知らずのわたしにそんなことを言うのでしょう。もしかすると止まり木の反対の端に座っていたわたしを鏡と見間違えたのかもしれない」と。「酔っ払いという鳥」である。

「白亜紀」134号(編集発行・白亜紀の会)
「春の肖像」北岡淳子。
「日よけ帽が男の眼を深い洞のように穿って向かい合う時間は言葉少なに過ぎるのだが それにしても 男の仕草のなんと敬虔なことだろう どうぞとすすめる珈琲を押し頂くようにゆっくりと口にはこび 香りを吸い込む その仕草は日常からは忘れられていたものだ」
 散文形式の三部構成の作品。一部では、物静かな男の仕草に関心をもつ様。二部では、男の背後の雑木林、そこに小鳥がいる。そして「男の眼の洞に小鳥がすっと舞い込んでいった」不可思議な光景を描く。三部では、「三年後 私はきっと約束を忘れている」という出だし。男のことや小鳥の声を思う。「醸された時間を大地に育てている男 千年前の私が きっと 世界ごと愛した男の 背が歩いて行く」と結ぶ。
「男」と「私」同様に、この詩も落ち着いていて、趣き深い。

「PO」138号(編集・佐古祐二/発行・水口洋治)
「海がにじむ」宋在学(ソンジェハク)・詩/韓成禮(ハンソレ)・訳。
「海がにじむ 白い熊手の骨組は ヘラがあれば 耳がなく目がなく口はちびて鋭くないが 波の裸足で海がにじむ 私の小さな体にも水面があり海の話がある くたびれてうなだれた歩みだけを見れば 海の方は波の踵だ」
 生命力とエロス性を感じるその詩は、美しく豊かである。
 
「花」49号(発行人・菊田守)
「春の山」岡田喜代子。
「張りめぐる/根のすみずみから/新鮮な水を吸いあげる/ 樹木」
「春の山」と男女の愛についてのダブルイメージ。
「「愛しているよ」と/ささやく くちびる/「うるさい だまれ」と/はきだす くちびる/最後に/「ああ」と/かたまる くちびる」
という第2連。以後も「春の山」を表側に、裏側に主に乳房など女性的な部分も含め、母性的なものを描いている。
「ほの甘い痛み を忘れない/にわかに芽吹くように 張ってくる/春の白い乳/自分のものではないような/おおきなおおきな/まるい ふたつの山/神さまのおっぱい」
 実は「山」は「神さまのおっぱい」であったという。柔らかで大きな詩であった。
 また中島登の「私の好きな詩人(15) 不滅のボードレール」なども懐かしく読めた。わたしも高校を卒業するころ、詩ではボードレールやランボーの翻訳詩を好んで読んでいたことがあった。あの頃の狂おしいほどの孤独を、思い出せた。

「折々の」(発行所「折々の」会)
「地表」松尾静明。
「夜の底で 犬が鳴いている
 犬の底で 夜が鳴いているのかもしれない」
「透明な声なので かなしいのか
 かなしいということは 透明になることであろうか」
 1連と2連を引用した。詩形的には、ある法則に従う。
 Aの底で Bが○○している。/Bの底で Aが○○しているのかもしれない。このパターンは最終7連でも見られる。
「夜の底で 犬が黙った
 犬の底で 夜が黙ったのかもしれない」
 またこういうパターンもある。Cなので Dなのか。/Dなので Cなのか。2連と5連がそれに当たる。
 左のような部分にもパターンがあり、3連と4連に当たる。
「鳴いているあの犬は
 生まれたときも 同じ声で鳴いたことがある
 生まれたことが かなしかったのか
 生まれた地表が かなしかったのか」
 これらのパターンの組み合わせで作られる。内容は、「地表」での〈夜〉と〈犬〉と〈犬の子どもを産んだ〉時の、〈かなしさ〉や〈声〉や〈透明さ〉や〈沈黙〉である。形式美と、夜に〈鳴く声〉と〈黙る〉で現される地表に生きるものの痛み。

「ゆんで」創刊号(発行人・弓田弓子)
「みずのをひも」広瀬弓。
「わたしたちはこすれ/こすれて…//光陰の反物のこぶあたり/紡ぎ糸のつかえた場所から/糸口を探りはじめる」
タイトルの「みずのをひも」とは「みずのおひも(=瑞の小佩)」のことであろうか。装束の小袖の上に結ぶ帯、下結う紐、小さい紐、あるいは下裳、下袴の紐など。次の連では、
「一世代前の女性の献身ぶりにはまったく頭が下がるわ。体の位置をこまめに替えて拭いてあげて、髭まで剃ってあげて、食べさせてあげて、食べた分出てくるものの後始末までしてあげるんだから、それも毎日よ。/わたしにできるかしら?/主婦の茶飲み話が聞こえてくる。」
またこのような連もある。
「だれ一人解き方を知らない紐の/結び目を解きほぐす女がいた/神の神秘に触れたのだから/女は神の嫁となった」
 ここでは、紐を解くことが神事にさえなっている。
また紐とは、衣の結ぶ紐でもあるが、
「「おうちにかえりたい」
「早く家に帰れますように」
ケアホームノ吹キ抜ケホールニ飾ラレタ笹ノ
金/銀/赤/白/ピンク/ミズイロ
短冊サラサラ
見知ラヌ爺チャン婆チャンガ手ヲ振ル」
 老人のための養護施設の、飾られた紐・短冊について触れている。その次の連では、おそらく老人におむつをしているその様子を描いている。また紐は、人の短冊を吊るす・結ぶものでもある。それらを感じさせる最終連が来る。
「男のような女のような人の短冊/結ばれ解かれ/紐の尾づかり合って//みずのをひもは連綿と//糸の細さに織り込まれて」
 細い糸によって、衣はつながれ、ひともつながれ、わたしたちの結びつきもまた連綿と、受け継がれていくのだろう。
 この「ゆんで」という誌は「弓手」、弓を持つ方の手が由来とのこと。広瀬弓と弓田弓子の2人誌。ともに「弓」の字。

「Junction」76号(発行・草野信子)
「物語はきょうも」柴田三吉。
「物語なら何度でも書き直せる。はじまりから終わりまで、登場人物も、句読点さえもばらばらにして。物語ならばそこに入って生きることもできるから、わたしは書きかけの〈お話〉をいつまでも閉じることができない」
 そして次の連ではこう始まる。「けれど人生は推敲ができない」と。さらに深みと品のある語り口で、人生の妙を語る。
「いいえ、わたしたちは過ぎた日を、歩いた道を推敲しながら生きているの。物語は、きょうも追憶され、あしたのために整えられている。だからほら、わたしはいま、まだ記されていない日々を推敲することもできる」と結ぶ。
 生きるということは、自分の物語を記していくことでもある。記すこと、書くこと、推敲することとは、生きることでもあり、それはそれで苦しくも幸福であるのではないか。





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